1942年に出版された本書の著者はフレデリック・モアー Frederick Moore(1987年~1956年)である(同氏をムアーと表記している書物もあるが、本稿ではモアーと表記する)。
日本語訳は昭和26年に法政大学出版社から寺田喜治郎、南井慶二の両氏による翻訳で出版された。米国大使であった、堀内謙介と野村吉三郎が序文を寄せている。
著者は、1921年から日米開戦の1941年12月まで3度にわたって日本国外務省に顧問(カウンセラー)として雇用され、米国人の視点からのアドバイスや各種英文文書の作成などを日本の外交当事者に対して行った。本書はその時々の著者の思いや外交当局者を中心とする人々との交流エピソードが内容の中心となっている。
著者は日本国外務省の「高官」ではないため(最初の二回は参事官の肩書を対外的に使うことを許されていた)、ワシントン条約から日米交渉に至るまでの日米二国間外交の表裏の詳細を知る立場にはなかった。しかしながら、彼の目に映った日本人の行動、語られる細かなエピソードには興味深いものがあり、今日でも日本人読者に読まれる価値は十分ある書物と考える。
本書は24章から構成されるが、最後の2章は「日本人読者の名誉にならない」という理由で著者の意向により、日本語版からは削除されている。
モアーは特に日本贔屓というわけでもなく、本書では彼が日本国政府で働くきっかけについても深くは語られない。彼は終生、日本語を解することもなかった。そのような人物が外務省の顧問として、霞が関の外務省の中に机を持ち、ワシントンの日本大使館では開戦時まで自由に出入りしていたという事実には意外な感じを受ける。当時の日本大使館には陸海軍からの駐在武官も多数出入りしていた。モアーはスパイと疑われ、出入り禁止になってもおかしくないような人物にもみえただろう。モアーと日本国政府の間には、本書で語られない、表に出しにくい、何らかのつながりがあったのかもしれない。これは、今後の研究課題としたい。
本書の後半では野村吉三郎が1941年2月にワシントンに着任してからの日々について語られ、興味深い細かなエピソードが多数、披瀝される。それらは、野村の人柄や当時の米国内の対日意識などを余すことなく伝えている。野村は日米開戦を避けようと努力したことが知られているが、著者の野村に対する目は温かい。それに対して、開戦直前に赴任してきた来栖に対しては辛辣な印象が語られている。来栖に対する辛口の評価はハルの回顧録の記述でも知られているが、興味深い点であり、後ほど詳述したい。
以下、本書で語られる興味深い個所を再録、紹介したい。尚、文中の本書からの引用個所は、前記の翻訳をベースにしつつ、筆者が一部修正した内容である。
第1章 日本政府のために働く
- 冒頭の本章では、モアーが外務省に採用された経緯と、日米開戦によって彼の日本国政府との関係が消滅するまでの経緯が手短に回想される。
- モアーは、ハーヴァード大を卒業後、新聞社に勤務するジャーナリストとして職歴をスタートする。彼はその出自、学業の内容からして、それまで日本との接点がなく、外務省顧問(カウンセラー)となった契機にはやや唐突感がある。本書全体を通じて、日本文化や歴史への理解も語られず、とりわけ親日家というわけでもない、ごく普通の米国人という印象を受ける。
- 1910年から1915年まで、AP通信社の記者として北京に駐在、各国外交関係者と接触、そこで彼と日本外務省関係者との接点が生まれた。1920年、ジュネーブでの国際連盟の第一回総会で斎藤博(後の駐米大使)と再会、外務省勤務を持ち掛けられ、日本国のために働くことを決断する。当時、斎藤博は日本代表団の書記官、モアーはフリーの記者であった。
- 最初の雇用主は駐米大使の幣原喜重郎で、幣原から渡された辞令には、「両国間に存在する良好な関係の維持と改善に助力する」と、簡潔に書かれていた。米国人であるモアーの雇用に対しては批判的な意見も外務省内部にあったという。
- 明治以来、日本政府は早期の近代国家設立を目指して、お雇い外国人を数多く雇用し、その数は何百名にも達した。しかし、モアーが採用された1920年当時はもはや、日本国政府はそのような外国人の助けを必要としなくなっていた。しかしながら、上層部の日本人の中には、外国人がときには役に立つと考える人が中にはいたため、彼は外務省に採用されたのである。
- ワシントン会議(1921年)での日本代表団としての初仕事が述懐される。国務長官のチャールズ・エヴァンズ・ヒューズは多忙の身でありながら、モアーの日本国政府団の中での役割を認め、しばしば直接、彼にコンタクトしてきた。
“国務長官のヒューズ氏は、こちらから電話で会見を申し込むといつでも会ってくれたし、ときには日本大使館に電話をよこして、私にちょっとやってきたまえ、と言うのだった。両国政府間の交渉が、二人のアメリカ人のこんな具合に複雑な役所仕事の手続きを抜きにした会見のおかげで、緊張がほぐれたり、交渉がうまく捗ったりしたことも時々あった。どんなことを私が言っても、日本側なり米国側なりがそれに縛られることはなかった。私の言うことなど、ただの小手調べにすぎなかった”
- ワシントン条約は、日米両国内で反対論もあったが、大戦後の平和を願う両国民には一般に歓迎された、とモアーは振り返る。ワシントン会議の仕事を終え、家族とともに来日する。外務省では、大臣室の向かい側の部屋を与えられ、顧問として霞が関での勤務を開始する。
“ 私がこんな(外務省幹部との)親密な接触を許されたのは、一つの特権であって、もしも大多数の日本国民が米国との関係がうまくいくだろうと信じていたのでなければ、とても米国人にこんな特権など与えられるはずのないものであった。私は東京にとどまること2年でワシントンに送り返され、その後はほんのときたま日本へ戻っただけだ “
- モアーは3回にわたって長年外務省で勤務できた理由を、歴代の雇用主が軍国主義者でなかったからだ、と言う。満州事変の起こる1931年まで、外務省では誰一人として日本の膨張政策を表立って容認する者はいなかった、と。ワシントンの日本大使館では、幣原、埴原、松平、出渕、斎藤、堀内、野村の各大使のもとで働いた。
- この1921年に始まった最初の外務省勤務は、1926年に終了する。その終了の経緯について、次のように語られる。
“その少し前に移民法が米国議会を通過してそれまで日本人移民の米国入りを制限していた日米「紳士協定」が廃止された。それで私は日本当局から暇を出されたのである。年に百人そこそこの日本人入国を許す、という形ばかりの割り当てを米国議会が拒否したことは、当の日本人には深い影響を与えるものだった。政府も国民もひどく心証を害した。この法令が通過したことは日本人の対米感情を一変させるものとなり、時が経つにつれ、日本人といっしょにいる私の立場にも響いてきた。外務省では米国人に外交事務をやらせている、という非難が起こってきた。それで私の契約は期限が来ると、そのままもう更新されなかった。”
- 2回目の勤務は1932年から33年まで。旧知の松岡洋祐が主席全権に任命されてジュネーブの国際連盟総会に出席した際に、随行員に加えられた。
“松岡が東京から私に電報を打ってきて、すぐ来てくれ、そして全権団の一員として、ジュネーブへついて来てくれ、と言って来たのでその通りにした。私としては、日本が東三省を奪い取ったやり方には賛同できなかったが、それでも日本には連盟に提訴できるやり方がいろいろたくさんあると思ったので、日本政府の役に立つのは嬉しかった。”
- 3度目の勤務は1934年に斎藤博が駐米大使になった際、斎藤から「非公式な勤務」の誘いを受ける。
“以前には二度とも外交官として参事官の資格を持っていたし、大使館でも、全権団でも、外務省でもちゃんと自分の部屋があてがわれていた。しかし、今度は日米関係が昔ほど良くなかったし、斎藤大使としても以前と同じ資格を私にくれるのは得策とは言えなかった。日本人の中には私が大使館に出入りすると言って、問題にする者もあったろう。しかし斎藤は私に助けて欲しいと思っていたのだし、私は役に立つのならできるだけのことはしたい、という気持ちだった。この最後の任期は戦争が始まるまで、ずっと続いたのである”
- この最後の外務省勤務は、日米間の緊張が高まる時期であり、1940年9月の日独伊三国軍事同盟の締結に至って、モアーは日米関係の将来に絶望する。そんな中で、旧知の野村吉三郎が駐米大使に任命されることになるが、1941年2月、赴任早々の野村に対して、モアーは悲観的なメッセージを発する。
“最後の年にはもう望みがなくなったので、最後の大使、野村吉三郎提督にその話をして辞職を願い出た。「もうこれ以上、あなたにとって私が役立つとは思えません。」 二人は並んで大使館の大応接室に座っていた”
“ 「おお」、と提督は答えた、「そんな事を言わないでくれ。私たちはまだやるだけやってみなくちゃならん」それに、と言葉を続けて、「まだ望みを捨てちゃいかん」”
モアーは野村の「実に感情のこもった話し方」に心を動かされ、野村の下で、日本国のために勤務を継続する決意を再び固めるのである。事実、真珠湾攻撃で最初の一撃が日本軍によって加えられた12月7日の正午、最後の打開策を話し合うために、モアーは野村と大使館で対峙していた。その際、野村は何度も呟いてた、という。「もう今となっては、神に任せるばかりです」と。
- 一方、モアーが最後に目にした特命駐米大使、来栖三郎については、ネガティブな印象が示唆される。
“ワシントンでは幣原、埴原、松平、出渕、斎藤、堀内、そして最後には野村と次々に7人の大使といっしょに仕事をした。特派大使の来栖 ― 米国と話をまとめるために、でなければ、米国との関係を断ち切るためにこの戦争が始まる3週間前に飛行機でワシントンにやってきたあの来栖 ― とは、たった一度くそまじめな議論をやりあっただけだから、これはいっしょに仕事をしたとは言えない ”
- この章の最後で、モアーは外務省が「独裁派の一味に仕えながらも、それを支持していなかった」と強調する。そして、1931年の満州事変以降、米国は日本に警戒心を強めながらも、経済的にすでに強固なつながりを持つ日本と戦争をはじめるなどとは誰も考えていなかった、と述懐する。
“日本は満州を奪い取っていたけれど、また、陸軍が中国へ侵入してからの後でも、 まだしばらくの間は、事態が戦争にまで発展するだろうと私は心配していなかった。小さい問題については、意見が一致しないというようなことは、どこの国との間でも、よくあることだ。そんなものは、平和を維持していく上で、日米双方にとっての、いろんな圧倒的な利害関係に比べると、全く重要さのないものだった。両国間に存在する貴重な通商関係も、そういう利害関係の一つだった”
“日本は米国の太平洋貿易にとって最大の顧客で、その額は日本以外のアジア、南米全体が輸入するよりも多かった。一方、米国は日本の顧客として最上のものであった。一番日本に近い隣国であり、国土こそ膨大でも哀れなほど貧しい中国なんかよりも、たくさん日本国民からものを買っていた。日本の海外輸出は4割平均のものが米国に積み出されていた”
ヘンリー・スチムソンは満州事変に対して日本国政府に抗議をしていたが、両国関係に重大な影響はなかった、として、1934年に新国務長官であるコーディアル・ハルと広田弘毅外相の間で交わされた書簡が引用される。
“事実、我々両国間には、妥当な立場から観察した場合、平和的な手段で解決できないと考えられるような問題は一つもない“
第2章 日本陸軍、支配力を握る
- この章では、1936年、彼が三度目の外務省勤務時代に、最後の日本訪問を行った際のエピソードが述懐される。この年の2月には226事件があり、その後の広田弘毅内閣の下でも、陸軍の勢いを誰も止められない雰囲気となってきたのが1936年である。
- モアーはある有力な人物から、陸軍が1年以内に大陸に進出する肚である、と聞かされる。その時既に、日独防共協定が結ばれており(1936年11月25日調印)、新聞にはソ連を痛罵する記事にあふれていた。また漁業権をめぐって、日本とソ連の間には緊張状態が続いていた。そこでモアーは大陸への進出とはシベリアのことだろうとこの時点で推測していた。
- モアーは大胆にも、大陸への進出には反対だ、ということを陸軍省や参謀本部の高級将校に説いて回ることを始める。
“軍人以外の日本人は、もう誰一人、軍服を着こんでいる連中を相手にしてまともに話し合うことなどできなかった。軍部の連中は非戦闘員のインテリというものを軽蔑するようになっていた。私は彼らの態度を変えられるという望みは全く持っていなかったが、外部のものだから、話をできる立場にあったし、骨を折ってみようという気になった”
- 当時の日本国内の雰囲気が、以前、彼が東京で勤務していた十数年前とは大きく変わってしまった、と、その変化を描写する。
“以前は陸軍省でも海軍省でも、宮中でさえもこちらから電話をかけることができたし、将校や職員と会見することも手っ取り早くすませることができた。それが今では会見の予約をするだけでも何日も、時には数週間もかかるようになり、省舎に入るにはパスが必要となった。会ってくれるにしても、決して一人では誰も面会に応じず、必ず誰かを連れてきた。陸軍大臣と会ったときは男たちがその場にたくさんいて、速記者までが同席した”
- 軍人以外ですら、モアーとの会話を警戒するようになり、残念だった、と語る。
“何年の前からも知り合いでワシントンやジュネーブで信頼して一緒に働いた間柄なのに、その人達でさえも、仲間の日本人を証人として座らせない限り、私と会うのを怖がるという始末だった”
“そういう人を困らせないために、私からは質問をしないようにした。ただ、こちらのいうことを聞いてほしいだけです、と。”
モアーの話は、だいたい次のような趣旨だったという。
“あなた方の国では陸軍が支配的なものになっている。陸軍の訓練は限りにある狭いものだ。陸軍が日本で占めているような地位をどこかほかの国で陸軍が占めるとすれば、それはその国の国民にとって、危険なものとなるだろう。ところが、その国民を守るのが陸軍の役目なのだ”
この説明を参謀本部の建物の中(あの宮城の下の石垣の堀を見晴らすことのできた建物)でしたところ、将校から激しい反論にあう。それでもモアーは言う。
“日本人がほかの国民と違って、人間味に欠けているなどとは思えない。そんなに強い支配力を握っていると、ほかに押さえつけるものが誰一人いないのだから、陸軍の将校はよく気をつけて、祖国に害を及ぼさないようにしなければならない”
- また、海軍将校とはこんな話をした。
“英米との海軍条約は貴重なものだし、破棄してはならないものだった。日本は財政の点からみて、大海軍と大陸軍を維持して行けるものではない。フランスは大陸軍だけ、英国は大海軍だけを維持している。あなた方には米国を相手にして主力艦の建艦競争をやるだけの資源がない”
- そして、
“ 誰も答えないが、私には彼らの腹の内がわかっていた。「なぜ米英は自分の持っているものの五分の三しか日本に持たせないのか。なぜ米国は日本に向かい合っている真珠湾に海軍の主力を置いていなければならないのか」”
“日本の軍隊は、世界のうちで自分たちの勢力圏だと思っている地域に最高の地位を確立する準備を進めていた。自分たちはそういう地位を占めなければならないと、久しい以前から主張していたのだ”
- 日華事変が1937年7月に始まるが、モアーは日本軍の意図を直ちに見破った、という。
“日本軍は、ただ夜間演習をしていただけだったが、そこに中国軍が攻撃をしかけてきた、と主張した。そういう風に日本国民には伝えられ、外国人にも、またこの通り信じてくれと頼み込んだ。盧溝橋事件は大々的な軍事行動の序曲だと私はみてとった。私は日本陸軍が征服しようとしていたのはシベリアではなかったことにようやく気が付いた。中国の陸軍は全く無能な存在だと思われていた”
- ここで、田中メモランダムが紹介される。田中メモランダムは今日では偽書でることが定説だが、本書が出版された1944年時点ではまだ真偽であることが確定していなかった。
“この文書は東三省(満州)、次に中国全土を支配するための論証要綱として、陛下に差し出されたといわれている。このメモランダムの英訳によると、二つの目的を完遂するためには、欧州を征服し、米国を粉砕することも、或いは必要になるだろう、と言っている”
“この文書は本物ではないと日本人が言っていたのを聞いたことがある。しかし、私はこれが自筆の物であることを疑わない。ただ、征服とか粉砕とかいう訳語は正確ではないと思っている”
“このメモランダムの英訳を読む者はこれが日本人の手でなされたものではないことを念頭に置かねばならない”
- モアーは「田中義一大将とは一度だけあったことがあるが、思慮分別の欠けた人間とは全く思えなかった」と回想する。そして、田中義一と1927年に会った当時の印象が語られる(当時、モアーは第一回目の外務省との雇用契約が切れた後であり、どういう身分で東京で田中義一に会ったのだろうか?)
田中義一との会談は一対一で通訳なしで行われた。その時の田中の印象は、長身で年齢は50歳前後(実際は1927年当時63歳)、仕立ての良いスーツを着こなし、英語はかなり達者、というもの。田中はモアーに尋ねる。
「日本が組織してシナを指導し、組織して開発することは米国の利益になる。米国にわからせることはできないか。両国とも莫大な利益を獲得できるのだ。日本はシナに法律と秩序を確立し、米国の資本家は日本と協力してシナを開発できるのだから。シナが混沌たる状況に陥ったのは、いろんな徒党が権力を握ろうとして仲間内で争いをやった結果であり、それで通商貿易も壊滅しているのだ。これを変化させるならば、日本も米国も利するものは莫大であろう」
モアーは答える、
「その通りです。しかし、いくら米国民を口説いても、日本の干渉を認めたり、日本の代理業者を通じて投資することは、できない相談である」
中国は米国の縄張りであり、そこへの日本の関与は一切認めない、という米国主流の考えが如実に出ている。まさに、この点に対する認識の相違が、日米が戦争に向かう根本原因なのであろう。
全くの物別れに終わる議論であったが、田中は自説を大変な名案と思っていたらしい。
第3章 天皇側近の人々
- この章では、モアーが経験した宮中に関連したエピソードが披露される。
“日本中のどこよりも深く事態の行方を気にかけていたのは、宮城であった。数年にわたって私が日本政府の仕事をしている間に、私たちはそういう側近の人々、全部で20人ばかり見知っていた”
- まず、佐分利貞男夫妻との交際が語られる。佐分利貞男は、1929年11月、駐支那公使在任中に箱根富士屋ホテルで変死したことで知られるが、彼がワシントン勤務時代(モアーが外務省顧問として働き始めたとき)の思い出が語られる。佐分利は英語がうまく、幣原喜重郎にも重用され、ワシントン会議でも活躍した、と城山三郎は「落日燃ゆ」で描写している(ちなみに佐分利は広田弘毅と外務省同期入省)。
“佐分利貞男夫妻とは、その後いつまでも変わらぬ友情で結ばれるようになった。佐分利は若いころ天皇の傳育係をしていたし、夫人は若い天皇の母にあたる、前の皇后の御付き女官であった。夫妻ともに、日本では一流の家柄の出で、情操と言い、気品と言い、 教養と言い、さすがに立派なものだった”
佐分利は英語力を高めるため自宅でのパーティーを企画したという。
“初めてワシントンに来たとき佐分利夫妻は英語がうまく話せるように、またアメリカ人の生活様式を覚えるために、私たちと一緒に暮らしたい、と言った”
そして佐分利は、パーティーを開くのに便利がよくて大きな接待室兼食堂のある屋敷を借りてモアー夫妻と一緒に住むことになる。
“それまで私たちはそんな(豪華な)暮らしをしたことが無かった。金は自由に使えたので、間取りも良く外観のどっしりした煉瓦造りの邸宅を大使館から1マイルほどの場所に見つけ、引っ越した。男前のフランス人を執事にして、その細君が台所を受け持ったが、それが素晴らしい腕前だった。”
機密費を使っての大盤振る舞いであったと推測されるが、モアーはそのとき受けた扱いを心底感謝しているようである。
- 佐分利夫妻を通して、モアーは宮中の人物を知る。幣原喜重郎の外交50年105Pに記述あり。
- “よく佐分利は晩餐会を開いたが、私たち夫婦も主人役に回って、客数は10人から20人というところだった。随分と面白い人も見たが、私が今なお覚えている二人は、徳川公(徳川家達)と「偉大なる下院議員」であるウィリアム・ジェニングス・ブライアンの二人である”
“徳川家達は、背は低く、でっぷりと肥え、年齢は60歳ばかり、健康なこと申し分の無い男であった。生涯の瞬間と言う瞬間を楽しんでいるようだし、そんな調子だから理屈っぽいところが無かった。その時はワシントン会議の全権の一人であった。もしも、その公爵が自分の身の上話をし始めようとしたなら、宴会の席にいた全員は、その話に耳を傾けただろう。けれども公は貴族院議長であり、これは米国の副大統領に相当する地位だ。だから公は自分で喋るよりも、聴く方が癖になってしまっていた”
“ところが大雄弁家のアメリカ人となると、黙っているわけにはいかなかった。この大雄弁家は平和の話を持ち出して、日本人にお説教めいた話を言って聞かせた。その隣に座っていたのが海軍大将の野村吉三郎で、彼はその時のことをめったに忘れなかった。それから数年間というものは、野村はこの偉大な平和主義者のことを私に話して、いつもあの人は品性高潔で先見の明があった、と言うのだった”
これも野村の素朴な人柄を示すエピソードと言えるだろう。
- 佐分利夫妻からワシントンで宮中についていろいろなインプットを受けたモアーは、「日本に行ったとき、重々しい石垣や、胸壁のある塔をみても、その外観から感じられるほど宮中は厳格なものではない、という気持ちだった」と、述懐する。
- モアーは園遊会に招待されて、初めて宮中に足を踏み入れる。当時、昭和天皇はまだ摂政で、出席はされなかったが、皇太后が女官たちに付き添われて、数百の招待客が形作る、長く広い通路を歩いて行かれるのを目にしている。
“このころまで、外国人の勢力というものが日本人の間でまだ強かったのである。それが服装にまで現れ、男子はフロックコートにシルクハット、夫人は西洋風のドレスとなっていた”
- 東京でけがをして聖路加に入院中(1923年)、宮中から使者が病院を訪れた際の看護婦の慌てぶりと宮中からの使者とのやりとりが描写される。
看護婦は、この予期せぬ来客を慌ててモアーに取り次ごうとする、「宮中の方をお待たせすることなどできません」、と。
宮中からの使者は、米国の新任在日大使、サイラス・ウッヅ氏の信任状への答書のレビューをモアーに依頼しに来たのであった。仕立ての良い、欧州風のモーニングを着込んだ英語の中々うまい宮中官は、タイプライターで打った一枚の書類をカバンから取り出して、モアーにレビューを依頼する。
「一つだけ、はっきり言うと妙な言いまわしがある。この文章の他の部分と調子が合わないから、その部分は書き換えなさい」と、勧めた。
すると、使者は何とも都合の悪いという表情を浮かべる。その箇所とは、ハーディング大統領の言葉を引用した箇所であったからである。
“「米国の大統領の英語というやつは、ときどき、てんでなっちゃいないのですよ」と私は言ってやった”
- モアーは徳川公達や珍田捨巳の邸宅にも招かれ、「いろいろ御殿のような邸宅の内部をみる機会があった」と、言う。いちばん印象深かった、として牧野伸顕について語る。
“ほっそりした長身をしゃんと起こしている牧野伯の気品には深く心を動かされた。外人仲間の間では、身体つきだけでなく心構えもまっすぐな人だという定評だった。私としても、伯が最初から信頼してくれたので、随分と調子のいい人だという気がした。どんなことを話しても、これは内密だから気を付けてくれ、ということがなかったので、 それがまた、なおさら調子のいいものに思えた。”
“最後に牧野伯に会ったのは1932年で、そのときは私邸の方で会ってくれた。見栄えのしない日本家屋だが、外人客のために洋室が一つあって、洋風の調度が整えてあった。この老紳士はそのときは和服を着ていたが、伯の和服姿には威厳を感じさせるものがあった”
- 松岡洋祐に誘われて、二度目の外務省勤務を始めた1932年当時、モアーは東京で、日本の役人たちを訪問し、ジュネーブ会議の下拵えをする。その際の印象について、
“中には話したがらない連中もいた。単に、軍服を着込んでいる男たちの振舞には賛成できないと言うだけで、それだけで自分たちがそれをどう考えているかを私にわからせようとするのだった。大抵の者が、牧野伯ですら用心深かった。それでも伯は反乱派の一指導者について一通り話してくれたから、その連中が日本を引きずっていくやり方に伯が不安を感じていることだけはよくわかった”
- 秩父宮との交流は、松平恒夫駐米大使(在任期間 1924~1928)の娘との婚姻を通して語られる。松平大使の娘二人とモアーの娘二人は仲良しになり、就学について相談を受けたモアーはクエーカー教のシドウェル校を勧める。秩父宮がオックスフォード大学での留学を終えて帰国する際に、ワシントンに立ち寄り、当時18歳であった松平の娘を見初め、東京に帰ってから求婚がなされた。その後、妃殿下を頼りに、モアーは秩父宮への面会を申し込む。松岡とジュネーブの国際連盟総会に向かう前、1932年か。
“こうした場合、会って話をする時間は限られているのが普通だが、私の場合はそうではなかった。会見の席では御付きの女官か侍従が同席するのが常だが、私の場合は誰もついてこなかった。私一人だけが殿下と妃殿下の二人の前に残された”
“宮は最初のうちは少し打ち解けない様子だったが、自分の妻と私がなめらかに会話を進めていくのを見て、間もなく気軽に私たちの会話に加わってきて、それからは話題をリードしていかれた。妃殿下は私の妻や娘たちのことを尋ねてくださった。私の方でも、ちょいちょい妃殿下の娘時代の名前を同じ調子で言いかけては、困った。私は自分が皇族に話しかけていることを忘れてしまったことを二度三度、お詫びしなければならなかった。しかし、お二人とも、外界から来た男を相手に、気兼ねも遠慮もなく話し合えたことを喜んでおられたようだった”
後日談がある。モアーが1936年に再度日本を訪問した時に、宮内大臣になっていた松平恒夫に面会を申し込むが、「いつもなら快く迎えてくれる返事が、今度は来なかった」
“私が米国に向けて出発する前日になって、松平は親展の自筆の手紙を届けてきた。政治的なことは何一つ書いていなかった。ただ思いやりの深い家族の話と伝言が相当長々と書き綴ってあった”
- 日華事変勃発後の1937年に二人の宮中に出入りしていた男のうち、一人、R氏(蝋山正道のことか?)がモアーをワシントンに訪ねてくる。日本と蒋介石との仲介をルーズベルトにしてもらえないか、という打診が目的だった。日本軍を押さえつけるのはもはや無理で、ルーズベルトの仲介など、役に立たないのではないか、というモアーに対して、Rは、いや、米国はまだ日本国内で威信があるので、その大統領の提案は絶大な効果があるはずだ、と主張する。
“そんな冒険をすると後で(軍部から)ひどい目に会いますよ、と私が言うと、「もう会っていますよ」と、私の友人は語気を強めて言った”
その後、国務長官のハルはRと面会したようだが、何も起こらなかった。
“この非公式な使節が提案したことは、ルーズベルト大統領が極東の両国政府代表に勧告して、東洋のどこかで会合し、余人を混じえずに話を進めさせるというものだった。この計画はあまりに不確実で、大統領が引き受けられないことが明白だった。多くの日本人が希望していた通り、うまくいけば戦争を止めさせることは出来たかもしれない。しかし、その結果として、中国北部での日本の支配力は一層、増大することとなっただろう。米国が日本の支配力がさらに拡大する危険を容認するはずがなかった”
もう一人の日本人は、忙しさにかこつけて、モアーとは会いたくない素振りであったが、ニューヨークのホテルで10分間だけという約束を取り付ける。
“日本が中国でいろいろとやっていることが、米国世論にどれだけ悪影響を与えているかは、この男も大使館で聞いて知っているはずだった。本当に心得ているかどうか、私は、はっきりさせておきたかった。この人はとても勢いのある人だったから、何もかもぶちまけて十分警告を与えてからでなければ、日本へ帰すわけにはいかなかった。私は10分間、ぶっ通しでそのことばかりを話し続けた”
- 多くの文官との会話から、モアーは最後の頼みの綱は天皇であることを知る。しかし、彼は天皇の役割を正確に理解していた。
“青年天皇に、この国の良臣たちはその望みをつながねばならなかった。それは、望みの無い望みであった。軍隊が企んでいるみせかけと実際は逆で、天皇は事実、その国の統治者ではないからである。天皇の心というものは、どんな勢力であっても、政府を支配する者が天皇に代わって、決める。形式だけは天皇自身の意思と言うことにするのだ。昔の欧州の国王でも天皇よりも権力を持っていた者はたくさんいる”
“一般の人々よりも賢明な文官政治家たちが天皇陛下に望みを託したというのも、実は、さっき言ったみせかけが、国民大衆の間に効果を及ぼしていたからである。何もかもが駄目になって、いよいよというとき、玉座からお言葉が出たとなれば、それが国家を救うかもしれないと考えられたわけだ。しかしまた、そのために権威の象徴それ自体を破壊するかもしれないという危険もあった。そして、もしもそんなことになれば、外国との戦争に失敗するよりも、もっと惨憺たる結果を生じることになるかもしれなかった”
- 本章の最後の箇所では、「天皇側近の人々」という章題に合致しない内容ではあるが、彼の日本に対する複雑な感情が披瀝される。日本には弁護できる点が多々あり、欧米列強の方が遥かに残忍であったが、盧溝橋事件以降の日本軍の中国での行動は容認できなかった、と。
“私は長いこと、米国人仲間の間で日本を弁護してきた。英仏露がはるばる中国まで手を伸ばしてきた帝国主義に比べれば、日本の帝国主義は割合に局限されている。この欧州3強国は、中国の国土を奪っているが、戦争するぞという威嚇によらずに獲得したものは一つもない”
“私にはこう思えた。自らが手広く何度も邪悪なやりかたで築き上げた前例を、有色人種が少しばかりマネするからと言って、当然のようにそれを嘲笑しながら指摘しているのが現状だ、と。”
ジュネーブの総会で国際連盟を脱退した際、松岡洋祐がこう言っていたのをモアーは思い出す。
「西洋列強は日本人にポーカー遊びを教えたが、あらかた賭金を手に入れてしまったところで、こんな遊びは不道徳だと宣言し、今度はコントラクトブリッジを始めたのだ」
“また、自らがフィリピンを植民地化したにもかかわらず、統治が酷く、国土も狭い、わずか60マイルしか離れていない朝鮮を日本が併合したと言って、非難する国民運動が米国内に沸き起こった。日本人にはこれが公平な態度とは思えなかったし、米国人である私にも、そう思えなかった。米国人は自分たちの正しさを疑わないが、日本人は信用しない。これだけの違いがある“
モアーは満州事変が起きても、日本は弁護に値した、という。匪賊の張作霖によって苦しんでいた民衆に、日本はもっと良い政治を与えただろう、その息子でアヘン中毒患者である張学良の人民を略奪するやりかたは残忍そのものである、と。
しかし、彼は言う、
“日本が中国へ行って、軍事行動を行ったとなると、さすがにそれを弁護して話をする気にはなれなかった。満州に侵入した僅か5年後に、こんな貴重な土地を大きな獲物としたあとで、日本軍は中国征服の企てに乗り出したのだ”
“私は日本軍のある種の行動も多めに見たり、弁解したりしたものだ。しかし、軍部の支配ということまでは支持できなかった。暗殺や脅迫も含めた陸軍の無法な行いを見せつけられては、黙っているわけにはいかなかった”
“だから私は、相手が米国人であろうと日本人であろうと、相手が私の話を聞いてくれる場合は、腹の底をぶちまけて話をした。それでも外務省顧問の仕事はやめなかった。自分の職に踏みとどまることで、まずは米国、次に日本の利益に役立つと信じていたからだ。どの駐米大使にもこのことは話しておいた。斎藤、堀内、野村の三大使が私を辞めさせなかったのも、それと同じ理由からだった”
第4章 日本、米国に訴える
1937年7月に始まる日華事変後、中国での軍事行動を進める日本に対して、米国政府、米国世論は日本への風当たりを強める。その中で、日本政府は懐柔を目的に、様々な工作を米国の官民に仕掛けることになる。米国の中国への同情と財政援助を止めさせるのが目的であった。しかし、その日本の工作が実を結ぶことはなかった。
“ 1904年から1905年にかけて、日本がロシアと戦争した時、米国は日本に対して、道義的、財政的支援を与えた。日本人の目にはそれが当然であり、筋道の立ったものに思えた。 しかし、自分自身が侵略者となったとき、米国がその相手を助けると、それが当然とも、筋道が立ったものとも思えなかった。中国が同情と支持を受ける価値があることを日本人には理解できなかった”
数多くの「親善」使節が米国を訪れることになる。この親善使節の歴史は意外と知られていないのではないか。
“英語が話せて、アメリカ人と付き合ったことのある連中が日本の「真意」と自称するものを我々に「説明」するために、派遣されたのだ。新聞関係者、実業家や財界の指導者、大学教授、帝国議会関係者といった連中で、時には退役陸軍将校や元外交官も含まれていた”
モアーはそのような親善使節にはじめは多数、会っていたが、日本に代わって、彼が他のアメリカ人達にうまく話してくれることを期待している人々も親善使節の中にはいたようである。
“私はもう腹を立てていたし、それには十分な理由もあった。情勢は一転して、今や危険な可能性をはらんでいたし、道理からいって、アメリカのためにも、日本のためにも、私は今までの行き方を変えねばならなくなっていた”
モアーの感じたところ、親善使節の言い分は以下のように要約される。
- シナ側が対日不買と抗日運動によって、日本を挑発した。
- 日本は紛争を局地化し、北支各省に限定しようとしたが、シナ側がそれを許さない。
- 日本人の生命を脅かすことで日本軍を揚子江におびき寄せた。
- 紛争の長期化を図るシナはアメリカの救援を待っている。
- 日本が要求することはシナが日本に対しての武装をやめること。
- そして、他国、特に共産主義国家ソ連との協力を差し控え、シナの開発に日本が協力することを認めること。
- これは米国にとっても利益となる。日本は門戸を閉鎖する野心など持っていない。
“これには詭弁もあった。嘘もあれば真実もあった。私には東洋諸国を研究する機会がいろいろあったし、世界で最もオープンな新聞とも接触してきた。こういう日本人たちは、欺瞞的な新聞に慣らされてきていた。自分がどんな風にうまく騙されているのか、何もわかっていなかった”
“私は会いに来た人たちのうち、日本の陸軍について、その人たちの知らない多くのことを話してやった。中国にいる日本の将兵が行った残虐行為について話してやると、ある高官は憤怒を顔に表して言った、もちろんそんなことを日本国民は知らせてもらえないですよ、と”
そして、モアーは一部の人には、日本兵が中国人捕虜を取り囲んで銃剣で突き刺している残虐な写真のことを話す。彼はどこの国の軍隊も残虐な行為を行うものだし、彼自身、従軍記者として目撃したこともある、しかしこのような冷酷無情な処刑は一度も見たことが無かった、という。
“日本の将校は、部下の兵隊が敵として怖れられるものに仕上げるために、ことさら獰猛な気持ちを吹き込んでいるものだと思いますね、と私は言った。しかし、そんな事をしたところで、日本の兵隊が中国で勝利を収めるなどとは全く考えていなかった。逆に、相手に抗戦の決意を固めさせることだろうと考えた”
モアーは日本人が中国という国を理解していない点を嘆く。
“私は日本人に向かって、あなた方は中国で成功するはずがない、と言った。外から来た国家が4億人もの国民を支配するなど、どんな国にもできるものではない。日本軍は到る所の戦闘に勝つだろう、しかし、それでもなお、中国人は日本人を敗北させるだろう”
また、日本人は東洋人だから、アメリカ人よりも中国のことはわかるのだ、と説く日本人ものもいたが、モアーはこれに真っ向から反論する。
“欧州の人種をどれか二つ比べてみても、日本人と中国人ほど違いの大きい人種はない、と私は言った。ロシア人とイギリス人の考えは、日本人と中国人の場合よりも、もっとぴったりする”
国務省の職員との面談を頼まれて、日本からの親善使節とのミーティングに同席することも少なからずあったようだが、モアーはその場を「わざとらしい」と描写している。国務省職員の日本人への対応は概して親しみを感じさせないものだったようだ。
興味深いエピソードとして、著名な国会議員であるKが、反日的な一流のアメリカ人を集めてパーティーをやりたいと言って来た時のことが紹介される。ワールド・アフェアー誌の主筆で国際議会同盟アメリカ部の幹部であった、アーサー・ディーリン・コール氏が、一度だけ国際議会同盟の会合で会ったK氏から、電報で依頼を受け、コール氏がモアーに相談をする。
“面白いな、と思った。まったく、日本人にはよくこんなのがいる。うぬぼれがとても強くて、自分なら虎穴に入って虎児を取り出して見せると思い上がっている。きっと、その虎がこんな政治家の手には負えないものだということを思い知らせてやるに違いない。しかし、ご当人がその猛獣と格闘したいとお望みなら、喜んでお手伝いをしてやろう”
日本大使館もモアーの集客への協力に感謝し、資金を自由に使わせる。モアーが真っ先に思い付いた招待客はロジャー・グリーン氏で、彼はヘンリー・スチムソン(日本の満州進出に強く反発した)が主催していた委員会の常任幹事であった。しかし、ほかの招待客集めに苦労する。皆、「自分は反日ではない」という理由で断った。対日強硬派で知られる国務省極東問題顧問のホーンベックも声をかけたが、断ってきた。結局1ダースの客を集めることに成功した。
“晩餐会ではコールが議長の形で、この議員に問題を提起するように言った。それをK議員は英語で立派にやってのけ、問題の論点も十分はっきりわからせる形で行った。しかし彼の行う議論は米国人側ではもう既に何度も聞かされていたものだった。だからグリーンはそんな議論にやすやすと取り組むことができた。私はKが気の毒に思えてきて、日本支持の論点を持ち出した。その結果、グリーンの猛攻撃を私に向けさせることになった”
“会が終わった後、私はKを引き留め二人だけで、話をした。彼は私に言うのだった、日本はシナ事変を「局地化」させたいから、北支が安定化することを条件に、南京政府と喜んで解決するつもりだ、と。私に向かってこんなことを言って来たので、私はカッとなり、嫌みたっぷりに言ってやった。日本は台湾、朝鮮、そして満州を「安定」させた。今度、北支が「安定」したら、日本陸軍は新しい事変を起こすだろう、揚子江流域を「安定」させるために。それが済めば、香港、フィリピピン、オーストラリアだ。日本陸軍の「安定化」のための計画は限りがない”
ここで、モアーは西洋人らしい、当時の日本人には許容不可能だった議論を展開する。
“私はいつも英・仏・独、そして米国の帝国主義を認めていた。日本の事情と違っているのは時間の問題で、日本が領土競争に参加したのは一世紀遅かったのだ。我々アメリカ人にも征服の時代があって、その時代の「明白な運命」が我々を太平洋まで引っ張っていたのだ”
しかし、モアーは何度も聞かされてきた話をしに来る親善使節に対する同情心も隠さない。
“日本の親善使節には、生意気で喧嘩腰のような連中は少なく、大概は真面目な人たちで、日本国内では陸軍の力を押しとどめられないので、高まる米国内の悪感情を抑制しようと目を海外に転じた人たちであった。つまりこう言うことを言いに来たのだ。自分達では陸軍を押し止めることができない、だからあなた方アメリカ人に訴えるのだ。できるだけのことをして、アメリカを押し止めてくれ、と”
そして、日本の植民地支配についても評価すべき点をあげている。
“日本陸軍が従属させてきた諸民族に対して、日本人が組織の恩恵を与えてきたという点に対して、多くのアメリカ人の意見とは異なり、私は同意する。台湾や朝鮮人民は、同じ民族であるシナ人または朝鮮人大君の支配下にあった数世紀よりも、日本人統治下の時代の方がよい生活をしていた”
しかしながら、日本が中国を支配することの限界をモアーは、国土、人口の点から論ずる。
“軍服を着ると圧政的になる。中国は領土、人口とも巨大だから、不断の酷烈さをもって永久に武力行使をしているのでなければ、日本人は中国を支配することができなかったのだ”
さらに、モアーはアメリカ人の明確さを欠く、日本人に誤解を生じさせるような情報発信に憤りを隠さない。
“アメリカ人の中には問題の核心を目立たぬようにしておこうとする人間が多すぎた。日本人が我々アメリカ人のことを勘違いして、気づいたときには手遅れだったというのも不思議ではない。1940年11月まで、日本人はアメリカ人の口からよく聞かされていた。ルーズヴェルトが三選されるようなことはない。アメリカ国民は、ヴェルサイユ会議の経験があるからもう二度と戦争しようとは考えていない。それに何と言っても、シナに対する感情は別問題として、アジアには戦争をするだけの値打がある権益を持っていない”
こうした「一般情報」とは裏腹に、モアーは日本人の在米特派員たちに、何度も警告を発していた。
「国務省が過去行った日本に対する抗議、警告 ― アメリカ人殺害、財産既存、アメリカの権利、権益への侵害などに対して ― に注意しろ」と。
日本人の特派員たちはモアーにこう説明していたという。「東京本社は希望が持てるニュースが欲しいのです。ルーズベルト大統領の政策に反対する意見の電報は採用するが、そのほかは没にされるのです!」、と。
コラム 須磨弥吉朗とのエピソード
モアーはアメリカ人の国民性について、須磨弥吉郎に話した内容だとして、次のように語る。
“日本の軍国主義者たちは、アメリカ人の忍耐心と戦争をいやがる気持ちに付け込んでいるように見える。これは判断を誤っている。アメリカ人の気分は一夜にして変わることだってある”
“日本の軍国主義者達はドイツの仲間と同様に、酷烈さは自分たちの専売品だと考えているらしい。しかし我々アメリカ国民は過去の戦争でいくらか残忍なこともやってきたし、けしかければ、またやらせることもできる。アメリカ人を挑発すれば、東京、大阪、神戸に爆弾を落とすことくらいのことはいつでもできる。女子供を殺そうと殺すまいと、お構いなしにやる。我々アメリカ国民が、今、恐怖に駆られてみているのは事実だ。しかし、だからと言って、それは東京などの都市を爆撃することを邪魔しはしない。そんなことを考えるのは好きじゃないが、やれるだけの力はいつでも十分にある”
その後、まさに、その通りとなったことは後世に生きる私たちがよく知るところである。
須磨弥吉朗は、この話をどのように同僚に伝えていたのだろうか。
第5章 宣伝と戦争熱
前章に引き続き、米国世論に訴えようという日本の努力、結果的に成功することのなかった対米世論工作についてのエピソードが本章では語られる。
1936年に最後の日本訪問を行った際、モアーは有田八郎外務大臣との話し合いで、日本人の手による対米世論工作が成功しないだろうと言い切るが、有田はその点を理解していたという。しかしながら、そういった米国内での世論工作が可能だと考える者は当時の東京には多数おり、中にはそのための莫大な資金を獲得した者もいたという。
モアーは宣伝屋を使った世論工作などよりも遥かに効果があるとして、米国の国務省を味方につけ、鮮やかな成果をあげた幣原喜重郎の古い成功例を引き合いに出す。
“ 日本人は英語を上手く使えないので、米国人との交渉においては不利な立場に置かれていた。外交官ですら英語を危なげなく使える者は1ダースもいなかった。幣原は並外れた達人だった。日本人は中国人みたいな語学の天才ではない。私は合法的な方法で日本を助けるのは当然だと思ったので、大使や外交官や首相のために、声明書や演説や会見録の草稿を書いたのだ”
“第一次世界大戦のあと、アメリカの新聞は、残念ながら米国海軍の運動にあおられて、日英同盟は米国にとって脅威だといって執拗に抗議した。私は幣原に、ワシントンの新聞記者と会見して、この同盟の話をやってみてはどうかと持ち掛けてみた。ずっと昔、1911年から1912年に英国政府は日本政府に対して、日本と米国が将来戦争をした場合は、英国はこの同盟を固守しない、と通告してきた。私は米国国民にこの点を知らせることの重要性を幣原に指摘し、幣原は同意した”
”その歴史を幣原から教えてもらって、私は声明書を起草した。幣原はそれに目を通して、書き加えたり修正したりして、一つの文書を作りあげた。これが全米の「第一面ニュース」になることは私にはわかっていた”
“こんな手際のよい、見事な「宣伝」は、宣伝屋の代理業が申し出た手順などでは、とても仕上げられるものではない。どんなに高い金を払ったところで、買えるものではない”
しかしながら、結局、日英同盟は破棄され、ワシントン条約体制に日本は組み込まれていくことになる。本章のテーマからは外れるが、モアーは日英同盟破棄こそが、日米戦争の遠因だと嘆く。
“米国が英国に強要して、日英同盟を破棄させたのは、米国外交の失策だったと私は痛感している。あの同盟は米国に脅威を与えようにも与えられないものだった”
“日本側は日英同盟破棄によって大打撃を受けた。英国側がたいした議論もせずに、米国の望み通りやってしまったので、米国という強国に対する日本の考えが変わった。起こりうる戦争に備えるため独自の行動へと方向を転換し始めた”
- 1937年当時、斎藤博大使のもと、世論工作を目的に、外務省は情報官というポストを新設し、巨額の予算をつけて東京から一人を派遣してきた(初回の送金が10万ドル)。斎藤大使もその情報官の効果に大きな疑問を持っていたようだ(ちなみに1937年当時の外務大臣は林銑十郎、佐藤尚武、広田弘毅)。
- この新情報官は「男前で英語もうまく」モアーに赴任早々、教えを請いに来る。しかし、モアーはドイツが大金を使って米国で工作したにも関わらず、米国が第一次世界大戦に参戦したことなど引き合いに出し、そのような工作は無駄だ、との持論を展開する。情報官は中国が米国内でロビー活動を積極的に行っていることを根拠に反論するが、米国の中国への同情の流れは変わらないだろうと突き放す。その情報官は二度とモアーに会いには来なかった。またアメリカの宣伝代理業者からモアーへのアプローチもあり、彼らは「日本人をアメリカ人に認めさせる」と、息巻いていたが、日米関係や国際問題に浅薄な知識しか持ち合わせていない連中だった、という。
- いろいろな機関を通じて、工作目的の日本政府の資金が米国内に送り込まれており、ひとつひとつに使用命令がついていたという。その使用に困った大使館に対して、モアーは、「得にもならないが害にもならない」として、宴会費として使うことを提案する。
“領事館やいろいろな半官の各機関は、思うがまま法外とさえいえる宴会をやった。ニューヨークでは総領事が一晩3万ドルから4万ドルはかかったであろう晩餐会を四度か五度やった。会場はニューヨーク最大でいちばん金のかかるホテルに申し込んだ。1200人から1500人もの招待客を招いた。御馳走は豪華なもので、飲み物はカクテルからリキュールまでなんでもござれ、葉巻も最上品だ。音楽も余興もつく。アメリカ人を多数寄せ集めて、一人20ドルくらいの晩飯をふるまうようなことはいつでもやれた。私はこういうのに、2、3回出たが、いつも錚々たる顔ぶれが出席していた”
私は本書に接するまで、このような外務省による大盤振る舞いの対米工作が戦前に行われていたことを全く知らなかった。当時、日華事変の戦費と軍備への投資のため、日本国の財政は極度にひっ迫していたはずである。現場では無駄、といっているような工作が巨費を投じて行われていた事実を知って、ただ驚く。アメリカ労働統計局のデータでは、1937年との対比で2008年時点で15倍である。当時の4万ドルと言えば、現在の60万ドルに相当する
いちばん金を使ったのは、1939年から1040年にかけてのニューヨーク、サンフランシスコでの世界博覧会だったという。
“ 両方とも豪華な日本館を建てて、博覧会の会期中ずっと日本政府が金を出して維持していた。そんなものを建てたり、庭園を造ったりするのに、日本の職人が大平洋を超えて派遣されてきた。また50人ばかりの踊り子が囃し方や付添いを引き連れて、一興行打ちにやってきた”
“こんな風に好意を得ようとして骨折ったことが、結局何の役にも立たなかった”
そして、「数百万ドルの金が戦費に使われずに、アメリカで散財したことは、アメリカにとって良かったことだ」と皮肉を言っている。
- 1940年に入ると、在米の日本企業の業績は急速に悪化していったという。日華事変以降、逆風の中を苦労して事業をつづけてきたものの、力尽きて投げ出してしまった日本企業が多かった。
“自らの失策ではなくして破滅したのはどうにも気の毒だ。私はよく知っているが、本国の軍の政策に賛成しているものなど、一人もいなかった。この連中は哀れな人々の群れだった。数は多いが、地位の低い、アメリカ在住の日本人だった”
- アメリカは日本からの輸入を減らす一方、日本は相変わらず必需軍需品をアメリカから調達していた。そのため、日本のドルは枯渇に向かう。1940年には、豪華な晩餐会も開く余裕がなくなる。非米活動の調査にあたっているダイス委員会が、日本の宣伝活動についても目を付けるぞと警告を発したことも、日本の工作活動を下火にさせる原因となった。
- 1939年にヨーロッパで勃発した第二次世界大戦は、ナチス・ドイツに対する米国民の恐怖心を煽った。欧州での大きな恐怖のおかげで、日本への世論の反発は少し弱まったという。
“そのため日本人は気さえ狂わなければ、米国との一戦を免れることができたのである”
“米国に住んでいた日本人は、本国の日本人にのしかかっていた精神病からは遠く離れていたので、そういった狂気沙汰が蔓延していることに気が付いていた。しかし、こういう日本人は無力であったために、そういった状況を変えることはできなかった。本国の狂人どもは、米国にもそういう狂気沙汰が蔓延しているものと考えた。米国からの忠告に腹を立てて拒絶した。連中は事実を知ろうとは思わなかった。大使館の人々がそう言っていた”
真珠湾攻撃に至る、難しい時期に駐米大使を務めたのは、斎藤、堀内、野村の3人だが、モアーはその一人一人が個人的な悲劇だった、と語る。次章以降は、その3人の時代のエピソードが時系列的に語られる。
第6章 斎藤大使、ワシントンに来る
本章と次章では斎藤博大使(在任期間 1934~1938)に関するエピソードが紹介される。冒頭、彼はこういう。
“この最後の3人の日本大使は、体つきから見ても、気持ちの面からいっても、三人三様で、互いに非常に違う人達であった。斎藤博はやせた小男で、身体は弱々しいが気の強い人間だった。身体の動きも頭の働きも速く、殊に会話となると、私の知っている日本大使のうちで一番自由にこなした。全くアメリカ人でなければ、あれほど自由にはこなせず、まったくアメリカ人の生粋の外交官であっても、あれほど巧くはなかった”
この章での人物描写は興味深いものが多く、引用が長くなる点をご理解いただきたい。
“堀内謙介は斎藤より少し背が高く、身体つきも立派で、身体には病気は全然なかった。斎藤は、やあよく来たね、というような調子の男だったが、その後任者の堀内はとてもそんな人間とは言えなかった。堀内と一緒に仕事をしてさえしても、その会話に現れる四角ばった様子や控えめな態度というものは、もしも私がそれに慣れていなかったら、話をしている間中、最初から最後まで、我慢のならないものだっただろう”
“斎藤は自分の健康のためにもウィスキーが必要でよく呑んでいたが、堀内は乾杯でちょっとやるだけでその他では葡萄酒にすら手を出さなかった。また斎藤はシガレットを続けざまに吸っていたのに、この人は煙草も全然やらなかった。クリスチャンだから節制を実践していたのだ”
“野村吉三郎は体が特別に大きく、がっしりした身体だった。アメリカ人の中にいても、大きくて強そうに見えた。体重は優に200ポンドを超え、身長は私の方が1インチか2インチくらい高かったが、あんなに頑丈なできではなかった。野村と私は同い年の63で、二人とも健康は申し分なかった”
モアーは以前からの勤務経験でこの3人とは旧知であったため、「個人的な関係で破らなければならない固く苦しさは無かった」という。
斎藤は1934年のワシントン赴任時、日米関係改善には自信を持っていたが、モアーはその道のりが難しいことを予見していた。「自信満々でワシントンに赴任したが、悲しそうに帰っていく大使を何人も見ていた」と言い、埴原大使(在任期間 1922-24)の例を語る。
埴原は1924年の移民法案通過の件で失敗する。埴原は米国政府にあてた覚書の中で、紳士協定が破棄されて、移民割り当てが日本に全然されない事態になれば、日本世論に重大な結果が生じる、という一節を国務省の示唆に従って入れる。しかし、上院ではヘンリー・キャボット・ロッジが音頭を取り、二つの言葉、「重大なる」「結果」を長文で友好的ともいえる覚書から引いてきて、これは米国に対する脅迫だと言って、ヒューズ国務長官とクーリッジ大統領の意図に逆らって、法案を通過させた。埴原はこの件で日本国民の信頼を失い、辞職を余儀なくされる。この法案通過時にはモアーは東京で勤務しており、埴原がワシントンで助けて欲しいと言っているのを聞かされて、急遽日本の住居を畳んでワシントンに帰ることとなった。
“私は当時(移民法案通過の頃)、米国が自分勝手に日本と余計な悶着を引き起こそうとしているのだと思っていた。日本の平和で友好的な分子 ― 当時は軍部に対して権威を持っていた分子 ― を助けることをしないで、まるで日本人はこちらが与えてやろうと思うだけのものを受け取ればよい、という風に考えたり、しゃべったりする連中が多すぎた。上層部にもそんな連中がいる所が多すぎた。それで中国人はいつでも米国人が言うことを聞いてやるものだから、この機を逃さず訴えてよこして、同情と支持を求めてきた”
出淵大使(在任期間 1928-1934)は満州事変で躓いた。当時の外務大臣は幣原喜重郎だが、二人とも満州事変で不意打ちを食わされた。幣原は文官が軍部を制御できると信じていたので、そういう情報を出淵にも送り、出淵は国務長官のスチムソンに対し、そういう趣旨を繰り返し言明していたが、結局恥をかかされた。出淵は大使を辞職、幣原も隠退を余儀なくされることになる。
“日本の大使にはこのような不幸な前例があったが、日米の両国はうまくやっていけるだろうという斎藤の信念は、ちっともこたえなかった。自分はアメリカ国民をよく知っていると思っていたし、事実、知っていた。行く行くは米国大使になることを目指して、アメリカ人のことは特別に勉強していた。英語はものにしていたし、米国の歴史、政策、経済、政治を研究した。どんなところでもアメリカ人と一緒になりさえすれば友達になった”
“斎藤が間違いをしでかしたのは、自分自身の国を理解する上でのことだった。斎藤はなお、陸軍を抑制できると信じていた。アメリカ政府を説き伏せて、中国支持政策を緩和させることができる、とも信じていた。中国人をアメリカの子分と呼んだり、国務省極東局のことを親支的と言ったことも、一、二度あった”
周知のとおり、日本の対華21か条要求(1915年)に強い警戒心を持った米国は、日本軍を山東省から撤退させ、九か国条約を起草し、「中国の領土保全と独立を尊重すること」を制約することを日本に強要する。その九か国条約の起草に深く関与していたエリヒュー・ルートは、「アメリカの態度と言うものに気を付けたまえ」、とモアーに注意を与え、1921年に次のように語ったという。
“自分が米国の最初の外交政策と名付けているものは、モンロー主義だ。しかし、徐々に、殊更作ったわけではないが、第二のものが規模は小さいながらも出来上がってきた。それは、中国についての我々の立場だ。あの国の領土の保全と独立を支持するのが米国の立場だ” と。
モアーは斎藤新駐米大使が、この米国の政策を変えさせようとは、一体どういうつもりなのか、と訝しんだ。
“斎藤博が夫人と二人の若い娘さんとワシントンに大使として赴任してきたときは、幸福と自信に満ちていた男だった。自分の生涯の大望 ― つまり日本政府の外交使節で最も重要な任地である駐米国大使館の責任者となる大望を果たしたのだった。この任地は、いちばん難しい場所でもあった。前任者が引き続いて挫折しているし、そのうちの一人は自分の外交官としての一生を台無しにしていた。斎藤自身は、自分にもワーテルローが待ち構えているなど、全然怖れなかった。斎藤は苦闘するのが好きだったし、この一戦に備えるべく修行をして来たのだった”
“この見たところ、50ばかりの男は弱々しくやせていた。以前から、ずっとそうだった(モアーの外務省入りのきっかっけは1921年の斎藤との再会である)。何年も骨を折って、身体を丈夫にしょうとしたが、生まれつきの弱体には打ち勝てなかった。もともと肺結核の筋を引いている家に生まれた。兄弟も姉妹も皆、それで亡くなっていた。長く嶮しい梯子を上り続けてこなければならなかったが、今はもう絶頂に登りついたのだから、少なくともこの点では、力の人だったということを見せたがるのだった”
モアーは斎藤の心中をおもんばかり、斎藤はアメリカの機会均等と言う原則が心の支えになっていたに違いない、という。両国間にある不信を叩き潰そうと決心したのは、日本のためだけではない、でなければ、貧しい家庭に生まれた彼が、とてもあそこまで偉くはなれなかっただろう、と。
“斎藤は、他人に対しても、知能と徳性とによってその地位を築き上げたのでない限り、相手を尊敬しない男だった。そしてそういうのがアメリカ精神だと知っていたから、この国が好きだった”
斎藤夫人についても触れる。当時の政府高官の婦人の例にもれず、斎藤夫人も華族の子女であった。
“斎藤夫人がワシントンへ来るのが嬉しかったのも、一つには子供を立派なキリスト教の学校に入れる機会ができたからだ。子供たちは宗教的な躾を受けられるし、同時に英語の勉強と会話を続けていくことができる。斎藤夫人は子供の頃に洗礼を受けたカソリックであったし、二人の娘も同じことだった。斎藤自身はクリスチャンではなかったが、自分の家族がクリスチャンであることを喜んでいた”
“斎藤夫人は背丈の低い、豊満な可愛いらしい女性で、微笑むと人をひきつけた。年齢40歳くらいだったが、30歳以上には見えなかった。古風な英語の言い回しをする夫人は、ひとたび絹の艶やかな着物をまとえば、たちまち人気のある女主人となった。すぐさま友達になった人々には、ルーズヴェルト夫人も、ハル婦人も、ボラー夫人も入っていた”
日本大使館の様子が語られる。ちなみに、現在YouTubeでも見ることができるが、1941年8月に野村吉三郎がワシントンから日米情勢について日本国民について語りかける当時のニュースフィルムがある。その冒頭に日本大使館が映し出されるので、是非、ご確認いただきたい。
この日本大使館はアメリカ人建築家による設計で、東洋風の造作など全く使われていなかった。「ジョージア風の変わり型で、インディアナ州の石灰で造られていた」、と描写されている。大使館の一階には、大宴会室と小宴会室、食堂があり、そこから裏の幅の広いテラスに出て行けるようになっている。日本風の調度品なども置かれていたが、モアーには気味が悪く思えたらしい。
“家具はみなアメリカのものか欧州のもので、敷物だけはペルシャ製だが、絵画や装飾品は日本のものだった。金蒔絵の箪笥や屏風は美しく、古めかしくて立派なものだった。壁にかけてあった大きな枠の絵画は、みな日本の行事を描いたものだ。この方は、それほど珍奇なものではなかった。現代ものではあったが、効果はあげていた。広いホールには封建時代から伝わった、等身大の鎧が二基おいてあった。これは気味が悪いと思った。もの凄い不自然な顔つきの面が嵌め込みになっていたからだ。けれども、どけてしまいなさい、というのも嫌だった”
花についての描写も面白い。
“大広間と三つの宴会室には、いつも花が置いてあった。よく、日本流の生け花にしてあった。ただほんの少しの蕾や花を用心深い技巧でまとめて、青銅や陶器の見事な皿に入れたものだ。アメリカ人がふんだんに花を使うやり方は、日本人の考えでは、良い趣味とは言えないのだ。しかし、パーティーの時はアメリカ人の花屋の好き勝手にさせた。そこで花屋はできるだけ高額の勘定書をでっちあげるようにしていたようだ”
2階には大使の書斎があり、そこで午後の時間をすごしている野村をモアーが訪問する場面が後半、たびたび描写されるが、その2階の様子が次のように説明される。
“幅の広いぐるぐる回っていく階段が、建物の一方の隅にあり、そこから2階へ上っていくと、階上はそれだけで何もかも揃った住居になっていた。応接室、書庫、食堂、それと寝室と浴室がいくつかある。みな大きくて、当時は家具などはなかなか綺麗なものだった。裏側には広いバルコニーもあって、それが公園よりもずっと高い位置にあったので、そこからはジョージタウンを見渡すことができた”
斎藤大使夫人は、パーティーのホスト役として最適の人物だったようである。病気持ちの大使にとって、パーティーでのホスト役は相当な苦痛であったようである。
“レセプションになると1500人くらい招待することは、しょっちゅうだった。大小の宴会室と食堂に数百人の客が詰め掛けていたし、天気の良い日にはテラスにも人が溢れて出ていた。 レセプションは午後の4時か5時から7時まで続き、大使館の構内には入ってくる客や出ていく客が絶え間なく列をつくっていた”
“斎藤大使は体調が良いことなど滅多にない人だったので、こんな役目は自分にとって労働であり責め苦であった。いつもやっとのことで、微笑をつくり、冗談を言っては、いい主人役になろうとして骨を折っていることを必死で隠していた。それでも健康な細君が、その役目をやり通して、うまく成功させることをいつも心得ていた”
1936年2月末、226事件が起き、同じ名前の斎藤元首相が暗殺される。日本大使館は嘆き、憤慨する。斎藤夫人は、「陸軍が外国人の目の前で、祖国に恥をかかせた」と泣いた。
第7章 和解を目指す斎藤の努力
本章では斎藤博大使が1934年に赴任してから1939年2月にアメリカで客死するまでの活躍が回想される。
斎藤大使の赴任時には、すでに満州事変から3年が経過しており、その後、満州国の建国、リットン調査団による報告書、日本の国際連盟脱退などがすでに行われていた。日本の歴史教科書では、「日本が国際的孤立を深めていった」と記述される時期である。斎藤は日米両国のために、新たな和解条約を結ぶのがよい、という考えを持っていた。当時有効だった条約は、1911年に結ばれた日米通商条約と1922年に結ばれた4か国条約であった。日本と米国だけの間で新たな誓約をすれば、永続的な効果が今すぐにでも現れそれは両国民の心持や気分に影響を与えるだろう、と斎藤は考えた、という。この考えを国務省に持って行ったところ、ハル長官は最初、乗り気のように見え、広田弘毅外務大臣と書簡の交換をする。しかし、条約を起草しようという段階になって、急にやめてしまった、という。それでも、書簡で「日米両国間で外交的に解決できない問題は、何もない」と両国が確認したことは、紛争の題目として、満州事変を持ち出すことはもうない、という意味だ、とその効果を斎藤に強調する。
1936年に、西安事件が起きる。これは、「大使館の人間に気持ちの良い満足を与えずにはいられない事件」であったとモアーは描写する。張学良によって蒋介石が捕らえられ、中共との戦いをやめ、その他無所属の中国軍と合同して、抗日戦争の準備をすることに同意するまで、この指導者が監禁されていた、という特異な挿話は、蒋介石の劇的境遇が米国内の新聞の注意を引いた。このとき、米国民は中国が分裂国家であることをはっきりと知ったのである。これは日本軍に恰好の口実を与えることになり、分裂した中国の軍隊が本当に役立つ合同をするまで、それを攻撃させることにした。「中国の軍閥は、日本側に非常にいいことをしてやったようにみえた」
そして1937年7月、盧溝橋事件が起きる。
“ワシントン大使館は前もっとそれを知らされてはいなかった、と私は確信している。日本軍のやり方は、自分が攻撃されるように挑発しておいて、自分の国民も外国の国民もペテンにかけるのだ”
現在に生きる我々が、かつて日本が中国をどうしようとしていたのか、理解できない部分がある。満州に関しては、当時、過剰な日本国内の労働力に見合った生産をおこなう場所を新大陸の未開の地に求めた、というストーリーは腑に落ちるものがあるが、中国本土で何を求めて、泥沼の戦いに突き進んでいったのか。
“大抵の日本人と同じように、斎藤も中国の軍隊なんか自分の国の軍隊を相手に戦争しようなんてしないだろうし、また、やれるものでもない、と思っていた。中国の軍隊と言えば、あの拳匪の乱が起こった1900年以来というもの、外国の軍隊と戦ったことはないし、あの当時も実に哀れな光景を呈したものだった。斎藤は、蒋介石が中国東部の将領たちを援けることは決してないだろうから、そういう将領たちはすぐに敗北を喫して講和となり、そうなると日本側が多少なりとも北支五省を支配するようになるものと信じていた。日本人はみなこういう風に計算していたので、みな誤算していたわけだ”
斎藤も中国軍が数か月のうちに講和を申し出てくると楽観しており、その後、日本が「寛大な講和」を結ぶだろう、とモアーに話していた。しかし、中国軍は上海のみならず南京でも戦いを続け、講和には応ずる気配が全くなかったのである。この日本の盧溝橋事件以降の日本軍の中国での軍事行動に対するアメリカ政府の当初の動きは認識しておく必要があるだろう。
“国務省との間もこの戦争の6か月間というものは、斎藤にとっては、前任者の出淵大使が満州事変で経験したような、あんな当惑と困難は何一つ起こらなかった。中国本土への攻撃は、万里の長城の外側にある満州に対する攻撃よりも、遥かに重大なものであったのに、アメリカ政府は6年前にとったような態度は取らなかった。ハル氏は、スチムソンとは違ったタイプの人間だった。英国に対して、共同干渉をしようなどとは持ち出さなかった。アメリカ人の権利の既存と財物の破損に対して、抗議をしたほかは、国務省の態度は控えめなものであった”
ところが、1937年12月に起こったパナイ号事件で衝撃が走ることになる。
Wikipediaでは、「パナイ号事件(Panay incident)は、日中戦争初期の1937年12月12日、揚子江上において、日本海軍機がアメリカ合衆国アジア艦隊河川砲艦「パナイ」を攻撃して沈没させ、護衛されていたスタンダードオイル社のタンカー3隻を破壊し、さらにその際に機銃掃射を行ったとされる事件」と、冒頭説明がなされている。日本側はこれを誤爆と処理し、米国も一応その説明を受け入れた形で決着している。しかし、この事件がアメリカの対日感情に大きな影を落としたことは相違ない。
“日本軍がアメリカの砲艦パネイ号を攻撃し、沈没させたというニュースが入ったときは大使館全体がびっくりした。私は新聞で初めてそのニュースを知った。当時私は大使館にいなかったから、人から聞いたことしか言えないが、海軍武官の小林大佐(小林謙五のことであろう)は怒りのあまり、新聞を投げつけたという。大使館事務所に沈黙が覆いかぶさった。大使館員は仕事を止めてしまって、熱心に心配そうに新聞を読み、いろいろな憶測をささやきあった。思いもよらぬことだ!”
モアーは、日本機がアメリカ国旗を掲げていた砲艦を「誤認」するはずがないと確信し、しかも機銃掃射まで浴びせていることに、衝撃を受ける。一日置いて、大使館を訪れる。
“出かけて行ったときは、いつものように案内もなしに、斎藤大使の部屋に入っていった。見ると大使は猛烈に煙草を吸いたてながら、机で何か書いていた。書きたい考えが浮かんでいたものだから、暫くは顔を上げなかった。さて、顔を上げるとよく来てくれたと言って、声明を書いているのだが、これをラジオで放送するつもりなのだという。こんなものだ、と言って数枚の紙を渡しながら、あとは君が締めくくりをつけてくれたまえ、と言った”
“大使がシガレットを差し出したので、私は座り込んで大使が書いたものを読んだ。冒頭から攻撃の謝罪を行い、何もかも損害賠償をするといった内容だったので、私は顔を上げて、東京から訓令が来ているのか、尋ねた。「そうじゃない」と斎藤大使は答えた。力を入れて、まるで怒っているかのようだった。「そんなものを待っているつもりはない、自分は特命大使兼全権大使だ。それらしく行動するつもりだ」、と。”
ちなみにこの時の斎藤の謝罪演説は冒頭部分他、断片的ではあるが、当時のイギリスのニュース映画の映像として残っており、YouTubeでも見ることができる。
パナイ号事件は、モアーの予想よりも早く解決する。アメリカ政府が解決するつもりで肚を決めていたことは、私が思っていたよりも、ずっとしっかりしたものだった、と彼は回想する。米国政府は日本政府の謝罪を受け入れ、損害賠償額も最小限度しか要求しなかったという。
“ それから10週間ほど経った頃、私はまた斎藤と一緒になった。その日、斎藤は自分で大使館から国務省へ支払いの小切手を持って行った。私はちょうど斎藤が出かける所に行き合せたのだが、嬉しそうにその小切手を私に見せた。あの悲劇的な事件から手を洗うのが嬉しかったので、まるで申し分のない健康状態にあるかのように斎藤は活発に動いた。しかし、そんな風にきびきびと立ち回るのを見たのは、それが最後だった。
しかし、モアーはこのパナイ号事件の解決に釈然としないものを感じていた。彼は橋本欣五郎陸軍大佐の呼び出しに応じて、飛行士たちがパナイ号を攻撃した、という米国の中国大使であったネルソン・ジョンソンの説を引用し、それに同意するという意見を述べる。橋本は同日に起こった、レディバード号への発砲事件の責任者であることは既に知られているが、パナイ号を襲撃したのは海軍機であり、それらに対しても陸軍の橋本欣五郎が指示を出した、というのはあり得ぬ話ではあろう。前出の田中メモランダムも含め、モアーの対日不信の表れを示す部分である。
“とにかく橋本は、問題の地域にいた連隊の指揮を執っていたのだし、生存者が岸へ逃げようとしていたところへ繰り返し発砲したのは、付近にいた地上部隊だった。その日、地上部隊は英国砲艦レディバード号にも発砲していた。橋本は有名な狂信者であった。橋本を含む多くの将校は、南京の近辺に多くの英米人がいることに腹を立てて、米英の軍艦に直接大胆な攻撃を仕掛ければ、揚子江岸の外国人は驚いて、日本軍の対支進出路線から逃げ出すに違いない、と信じたのだと思う。多くの日本将校は、ドイツ人将校と同じように、米英は戦争しないものと確信していた”
橋本欣五郎に関する記述が続き、彼がこの時代の日本の対中工作の象徴と位置付けられる。今日の視点からすれば、橋本の影響力に対する「過大評価」ともいえるものだが、モアーはこれらの情報をどの筋から入手していたのだろうか。
“パナイ号事件の意味する本当のことを理解していた者は、アメリカ人の中にも殆どいなかった。 しかし、斎藤にはそれが不吉な前兆であることが分かっていた。あの攻撃が計画的だったという見方は、私に対それを心配していることははっきりしていた。これは、もちろん、私も同じことだった。そこで、私は斎藤にも、ほかの大使館員たちにもこう言った。東京に電報を打って、政府に圧力をかけなければならない。中国全土にいる陸海軍に対して、もうこれ以上、一人たりともアメリカ人を殺してはならぬと命令するのだ、と。”
一方、斎藤大使の健康状態は悪化する。「会うたびごとに、前より、少しずつ弱っているようだった」。モアーは次第に、参事官の須磨弥吉郎を話し相手にするようになる。そういう中、記憶すべきエピソードとして、斎藤と交わしたグアム島要塞化に関する議論をモアーは回想する。グアム島は1898年の米西戦争で米国が獲得した領土だが、パナイ号事件の後、グアムを要塞化すべきだという意見が米海軍部と議会から出てくる。モアーは米国の太平洋での拡大政策に反対の意見で、斎藤とこの議論をする。すると斎藤は意外なことを言うのだった。
“やってくれればいいね、と何気なく、しかも力を込めて斎藤は言った。「議会が話を進めてやってくれればいい。その効果は、我が国の軍国主義者たちにとって貴重なものになるだろう」と。これは、斎藤の心がどんなふうに変わったか、はっきりさせた。ほんの数か月前までは、米国が日本に譲歩してくれればいいと思っていたのに、今では、米国が自分の国に圧力を加えてくれればよいと思っているのだ。斎藤も、とうとう心配になってきて、日本の陸軍はその他の日本の党派だけではどうにも抑制でききないのではないか、とはっきり感じているのだった”
斎藤の健康状態を案じて、帰国を勧める者が多かったが、斎藤は固辞し続けたという。そのうちに、大使館の中でも斎藤を心よく思わぬ雰囲気が出始め、管下の職員が大使の交替を本省に進言する者が出てきた。結局、斎藤は帰国命令を受け入れざるを得なくなった。しかし、斎藤の体は帰国の長旅に耐えられる状態では最早なく、後任の堀内が1938年12月にワシントンに来た時には、斎藤は病床に就いたきりであった。半分だけ残っていた肺も、正常に機能しなくなっていた。
“私たち夫婦は斎藤が最後のときを過ごしたホテルに何度も会いに行った。私は斎藤の最期の日の前日に、その枕元にいた。斎藤は、僕は外務省に警告の電報を打ったところだ、と言った。あまりにもひどく衰弱しきった人間だったから、まともな議論などできるものではなかった”
ルーズベルト大統領も夫人も、外交の手続き上に定められた以上のことをして、同情を示した。斎藤の遺骨は、アメリカの巡洋艦で日本に送り届けることを大統領は命じた。アメリカの官辺では、大統領がこのような特別な尊敬を表した弔意を示したのだから、良い影響を日米間に与えてくれれば、という期待が高まった。しかし、モアーは突き放したように言う。
“橋本どもの心を変えて、断固たる決意からそらせることなど、到底できるものではなかった。そういう連中は、外国人や外国人がそうした方がいいと思うこと、外国人と共同した方がいいと思う日本人のことなど、全く気にかけなかった。そういう連中は狂信的、排他的になっていたし、国民もそのようにしておくつもりだった”
第8章 通商の断絶
本省では、1938年12月以降、堀内大使時代に起こった事件が語られる。
堀内謙介大使は、ニューヨーク総領事から外務事務次官を経て、駐米大使に赴任してきた。アメリカでの経験も豊富で知人も多く、自信に満ちた赴任だった。
“個人としては何もかも身に付けていて、なかなか立派だった。風采も態度も満点だった。教養も高く、洗練された人だった。英語も上手に使いこなすし、外交経験の幅も広かった。外交使節の主席ともなるとその細君が力添えともなれば邪魔にもなるが、この点でも大使は幸運だった。堀内大使夫人こそ、ほかには比べようもないほど、立派な協力者であった。美人で、身のこなしには威厳があり、日本人にしては背が高く、心身共に釣り合いの取れた人だった。夫君と一緒に広く旅行し、夫君と同様に友人もたくさんあった。夫君と同じように、夫人もまた熱心なクリスチャンだった”
しかし、堀内大使は、斎藤前大使に比べて、なかなか打ち解けない人だったようだ。
“私は以前、堀内夫妻とはニューヨークと東京で知り合いにはなっていたが、初めの間は、斎藤大使がいたときのようには気楽には行かなかった。この新しい大使は前任者よりも打ち解けず、手続き上でもったいぶる癖があった。その部屋には、案内なしには入っていく気にはなれなかった。堀内は注意深く言葉を選ぶのが常であり、極端に用心深いこともあった”
斎藤前大使が健康を害して以降そうであったように、モアーは気さくな須磨弥次郎と話す機会が多くなる。
“堀内は私のことを、世間騒がせのうるさいやつだと思っていたらしい。しかし私の懸念が見当違いではなかったことを示す証拠が着々と増えていくのだった”
“日本が中国を侵略するのを見て、アメリカ国民が初めて心配になったとき、国務長官は抗議の覚書を提出する手段に打って出た。段々覚書の数は多くなり、長文のものになっていった。 1917年に米国が参戦する際にはドイツに対して、たくさん送った。英国へ、でもあったが。1931年の満州事変には日本に対して、同じことをやった。今また、1937年7月の中国侵略の後で日本政府を相手に覚書を書き続けるという手を使ったのだった。1年半の間、国務省は東京へ抗議の覚書を送っていた”
モアーはハル国務長官いついて、ランシングやスチムソンなどの前任者に比べて、タカ派色は少ない人物だと記述している。しかしながら、そのハル長官も、ルーズベルト大統領も公開の演説ではだんだんと憤りを表すようになっていったという。日本の外務省の覚書に対する回答は、喧嘩腰であるか無視だった、という。外務省の態度は口にこそ出さないが、戦争しかねないほどの態度で、日本軍は中国で根本的な変革を行うことを提案したことを米国にはっきりと知らせてきた。
ついに、堀内がワシントンに大使として赴任してきた1938年12月、その31日に付の国務省の抗議文が最後のものとなった。その覚書では、中国における、日本のいうところの「新秩序」を米国が容認しないことを明確に述べている。この覚書に対する日本側の回答は無かった。モアーが大使館にその理由を尋ねると、「一体自分たちに何ができるのか、何もできませんよ!」という返答であったという。モアーはその事実を国務省の極東問題顧問であるホーンベックに伝え、もう覚書を書いても効果は期待できないだろう、との意見を表明する。その後、国務省は報復行動による抗議を行うようになるのである。ちなみに、1938年12月31日付の国務省の抗議文を日本国政府が無視したことについては、後日ハルは野村に対して何度も遺憾の意を表明していたことが、野村の著書「米国に使して」で語られている(22頁)。
“日本人に対する衝撃は遅かれ早かれ来るに違いないと私は見ていたが、それが1939年の夏にやってきた。堀内大使夫妻は田舎に出かけて行ってワシントンにはいなかった。上院外交委員会の委員たちは、日本軍が中国に在住しているアメリカ人に押し付けている新しい状態を研究していたが、その結果、米国が日本との間に結んでいる条約のうちで最も重要なもの、1911年の通商航海条約を破棄するように政府に要求する決議案の通過を提案した。何か行動が起こることはもう明白であった”
“それがどんなものとなって現れるか、私は見当をつけるしかなかった。ありそうなこととしては、休暇で米国に帰っていた東京駐在大使のジョセフ・グルーが、もう任地には派遣されないことになるかもしれない、と私は思った”
モアーは堀内大使がワシントンを空けていたために、須磨弥次郎参事官にこれを知らせる。ちなみにこの休暇帰省中の米国での出来事は、グルーの著作である「滞日10年」では記述がない。
“数日後の1939年7月26日に行動は起こった。それは大使を引き留めておくというよりもっと明白で強硬な形で起こった。大統領と国務長官は、上院が腹を立てていることを知っていたから、二人で役目を引き受けて、日本政府に対し、アメリカ政府は1911年の条約の条件に従って、既定の6か月以内に、同条約を破棄すると通告した”
“この通知は大使館に送達された。アメリカの新聞報道にはっきり現れているところや私が須磨に話した考えの他は、少しの警告もなしに、いきなり通知が来たものだから、大使館の驚愕はこの上なかった。大使はすぐさまワシントンに戻ってきた。ニューヨークその他の都市からは、日本の実業家の代表者たちがやってきて、その影響について大使館で確かめようとしていた”
通商航海条約破棄による影響について、法律上のアドバイスをモアーは前国務書顧問官であったフレデリック・ニールセンに依頼する(ニールセン氏は日本大使館に雇用され、そのまま、1941年12月7日の開戦の日を迎えることになる)。モアーとニールセンは、ニューヨークに出かけ、日本の商社や銀行の首脳たちに会い、法律上のアドバイスをすると同時に、彼らにアメリカ政府の憤りを伝える。このままでは、第二第三の手が打たれる、と。
“私がやっている仕事はアメリカ政府の仕事と同じ線のものだった。アメリカの官辺が言っていたことを私もまた言っていた。私は非公式な立場にいるし、それだからまた、言葉遣いの上でも制限されることがずっと少ないから、「外交関係の断絶」とか「敵対行動」とか「戦争」とかいうような言葉を使うことができた”
ジョセフ・グルー大使が1939年秋に東京に帰任して、10月19日に日米協会で行われた演説が引き合いに出される。政府公式見解が言葉の上で制限される例として示される(この全文は「滞日10年」で見ることができる)。そしてモアーは言う、「この大使の公認の警告も国務長官の覚書と同様に何の役にも立たなかった」、と。
第9章 松岡、外相となる
本章では第二次近衛内閣で外務大臣となる松岡洋祐について語られる。モアーの二回目の外務省勤務は松岡洋祐の声掛けによるものであった。
1939年9月3日に開戦した英仏・独の戦争は日本の対中戦略に追い風となった。日本政府は欧州からの圧迫から解放されたのである。欧州での戦闘は、日本の友情を求めようという気配をアメリカに起こさせた。
“日本人からみると米国は中国のことではせいぜい異議を唱えるくらいのもので、それ以上のことは何もやれるはずがないようだった。アメリカの態度を気にするようなことは、まるでもう、なくなっていた”
“米国には用意ができていなかった。アメリカ国民は欧州の問題で意見がわかれていた。もしもアメリカがイギリスやフランスのために参戦することができないとすれば、きっと中国のためにも参戦しないだろう。アメリカ政府には勝手にしゃべらせておけばよい。あの外交的な圧力なんて、こけおどしだったに違いない。これで助かったという日本の気持ちはとても大きなものだった”
“既に二年も日本の軍隊は中国で戦っていたから、その間に日本の国民が非常な苦しみを嘗め、犠牲を払ったことは事実だった。その戦争はこの時既に、日本の歴史始まって以来のどの戦争よりも大きな損失を出していた。けれども日本人と言うものは、損失が大きいからと言って、身を退くようなたちの国民ではない。ひとたび何かやってみようと決心をし、腹をきめたからには、やり損いをやろうが、残念な結果になろうが、お構いなしに最後までやり抜く国民だった。日本人にとって、犠牲を払う能力は決して終わりにはなっていなかった”
日本人は、数か月で中国での戦闘は終了すると考えていたが、予想を超えた長期戦となる。しかし、米国が中国のために干渉してくれるという望みが絶たれれば、すぐさま蒋介石も降伏するだろう、と日本人は言っていたという。欧州で始まった戦争が、米国の干渉をもはやできないものにしてしまった、と。
“本国の国民と同じように、米国にいる日本人たちも大いに元気づいた。銀行家も実業家も、それに大使館員たちも、こういう風に信じた。アメリカ政府は、もうこうなった以上、差し迫った条約廃棄に代わって、両国の貿易を捜査していく取り決めをはっきりさせるために、米国で仮条約と言っているものを日本との間にまとめたいと思っていることだろう、と”
この仮条約の交渉は東京の阿部内閣での外務大臣、野村吉三郎と駐日大使グルーの間で行われていた。
堀内大使は代用協定を取り決めるように本省から励まされ、その考えをモアーに相談するが、仮条約の獲得は難しい難しいだろうという見通しを語り、堀内をがっかりさせる。その後、堀内は本件でモアーに相談することは一切なくなったが、他の大使館員やニューヨークの銀行家たちの間とでは、何度も蒸し返される問題であった。日米通商航海条約は1940年1月26日に消滅する。これで、両国は適当と考えた時期に、いつでも予告なしに輸出を制限したり禁止したりすることができるようになった。
政治的な見解の相違にもかかわらず、堀内大使夫妻とモアー夫妻の交際は、何ら妨げを受けることはなかった。モアーは自分たちが個人的な利益に反してまで、自分たちの意見を変えないのを見て、大使夫妻から尊敬された、と感じていたが、予想通り、堀内大使は重要な案件について、モアーに相談しなくなる。
“大使がもう少しで私を激昂させそうになったことが一度ある。私が無造作に戦争と言う言葉を口にしたのだ。すると堀内はいかにもイライラした態度で、「モアー、君の国は戦争なんてしないよ」と、言った。戦争の可能性については、以前から可能性があると私は言っていたし、その時は立ち上がって大使の部屋を出ていこうとしていたときだったので、私はただ頭を振って、当分の間さよなら、と言っただけだった”
モアーの日米関係に関する悲観的な見通しは、1940年始め時点で、米国内で一般的なものでは全くなかった。まだ大統領選は始まっておらず、共和党、民主党両党の全国大会も始まっていない時期だった。戦争に突き進んでいくと考えていたアメリカ人はまだ少数派であったが、モアーはその少数派の一人であった。モアーは自分の考えを須磨参事官には正確に言うことができた、話し相手としては申し分なかった、と回想する。
“堀内は、日本は自らを改革することができるし、米国は(日米間を)平和のままにしておくことができると考えているようだった。須磨は、そうではなくて、日本の国民は一致団結して軍の政策を支持していると、何度も繰り返して私に話していた”
堀内大使にとって、日米通商航海条約の破棄が第一の衝撃であったが、第二の衝撃は松岡洋祐大臣による大使解任である。1940年7月に組閣された第二次近衛内閣の注目大臣は何と言っても松岡洋祐外務大臣である。モアーの二回目の外務省雇用のきっかけとなったのは、1933年の国際連盟総会での日本全権団への参加であり、彼に声をかけたのは当時の日本全権、松岡洋祐であった。しかしながら、本章でのモアーの松岡に対する記述はネガティブなトーン一色である。
“松岡は芝居がかったことが好きだった。それで外務大臣をやっていた9か月から10か月の間というもの、初めからおしまいまで、「離れ業」を考え出そうとしていたようだった。そうして自分の名前がいつも日本の新聞の第一面に現れるようにし、また時々、世界中の新聞にも出して貰うつもりだった。この男は偉そうに歩きたがる点で、ヒトラーやムソリーニの賛美者だったし、型は二人よりも小さかったが、競争者だった。幸い、私はこの男をよく知っていたから、どんなことをしでかすか、見当をつけることができた”
派手なことをやるのが好きな松岡は、20人余りの外交官の首をすげかえた。その一人が堀内大使だった。
“私は肝心の役者をよく知っていた。この役者はどぎつい舞台照明がとても好きだということを知っていたし、こんな芸当をやってみせるのは、座付き作者が評判になりたいからであり、同時に軍部のご機嫌も一挙にせしめようと狙っているからだ、と見て取った。軍部はもうずっと前から外務省の仕事を軽蔑していた。軍の首脳部ではこんな事を言っていた。軍人が国家のために獲得するものを弱腰の外交官どもは手放してしまう、と。そこで松岡は自分も弱虫どもを軽蔑しているというところを一つお目にかけようとしたのだ”
堀内はモアーが松岡と親しくしていたことを知っていた。松岡が満鉄の総裁だったときに、松岡は満鉄ニュ-ヨーク支店顧問と言う閑職をモアーに与え、大使館からの報酬の足しにしてくれた、とモアーは松岡に感謝していた。しかし、松岡から受けた個人的な恩義はともかく、こんな理不尽な人事を見せつけられては黙ってはいられない、とモアーは堀内に同情を示す。
“堀内はまるで喋らなかった。いつものように、話し手と言うよりは聞き手だった。20人あまりの後任を見つけ出して空いたところを埋めるのは難しいだろうという点には同意したが、自分の上司である外務大臣については、批評らしいものは何も持ち合わせていなかった。堀内のそんな態度は、寛大でありすぎるように見え、もう少し人間らしくしても良い、と私は思った”
1940年1月の通商航海条約破棄以降、徐々に、アメリカの対日輸出に対して制限が加えられるようになる。供給が制限されてきたために、制限品目にはアメリカ自身が必要としていた物が含まれていた。しかし、輸出禁止という段階になると、両国はまだ平和の状態にあったのだから、日本には異議を申して立てる権利があった。条約上の権利は無くても外交上の権利はあったのである。米国は日本にとって戦争を継続していく上で必要となる物資の最大の供給国であった。米国が日本への供給を減らせば、それらを求めて日本が新たな侵略をアジア諸国に行うのではないかと言う懸念が米国にはあった。しかしながら、工作機械、鉄屑、航空用ガソリン、原油など戦争に必要な物資一つ一つに、部分的な制限が加えられていった。
“ある日の午後遅く、堀内大使から直接私に電話がかかってきた。会いたいから夕食前に大使館に来てほしい、と言うのだった”
“大使の手には証書ほどの大きさの文書が二通あった。米国政府に通達するようにと訓令を受けているだが、あなたの意見を聞きたいと言って、一通の文書を私に渡し、読んでみてくれ、それを国務長官に口頭で言え、と言われたのだと説明した。タイプで打って数ページのものだったが、読んでみて、外交的の通達としては、強硬な内容だと感じた。しかし、私が危険だと感じるような声明もなく、書き直した方が良いとおもわれる文句もなかった”
その文書は修正不要だろうということになり、モアーはもう一通の文書を見せて欲しいという素振りを示すが、堀内は見せなかった。晩餐会の予定があった堀内は、翌朝また来てほしいとモアーに依頼してその晩は別れた。翌朝、堀内はもう一通の文書をモアーに見せるが、彼はそれが非常に重大な声明であることに気づいた。それは米国が石油の日本への輸出について行った制限について、抗議が強硬な言葉で綴られていた。
“私には松岡が軍と約束を守っているのだ、とすぐに分かった。自分が外務大臣だったら、日本の政策に反対する外国政府に対して自分は強硬に発言してやると、松岡は軍に約束していたのだ。アメリカの輸出制限命令はうまく工夫されていた。それは南北両アメリカと英帝国に所属する国は別として、その他すべての国に対する輸出に制限を加えるものだった。しかし、アメリカの新聞はれが日本への供給を減らすことが真の目的であることを見抜いており、日本人もそのとおり、見抜いていた”
その覚書は、日本を狙い撃ちにした内容である点に抗議しており、最後の一節に、日本国政府はこの制限令をもって「非友好的な行為」とみなし、アメリカ政府がそれを取り消すことを要求していた。この非友好的な行為、という表現は外交では強硬なものであり、その覚書の最後の一文は、どんな事が起こるかわからない、という意味だった。
“一日か二日経って、私は堀内と会ったが、国務長官に会いに行って、覚書を提出した時の様子はどうだったかと私の方からは聞かなかった。しかし、堀内が自分から進んで話してくれた。ハル氏は例の「非友好的な行為」という言葉に行きあたると、さっと顔を上げ、急に声を立てた、「非友好的行為!」。堀内の話はこれだけだった。しかし、輸出禁止も撤回されず、日本も欲しい石油を取りに、南方に出ていくことはなかった”
そして1940年9月27日、日本は日独伊三国軍事同盟を結ぶ。これは天才か狂愚でなければできない腕の冴えだ、おそらく後者だろう、とモアーは言う。そして、堀内にもそう言った。
“堀内も同意したように思うが、これまたわからない。同意するとは口に出しては言わなかったから。大人しくて親しみのある様子だったけれども、堀内は重大な議論になるとちょっと類の無いほど黙り屋になってしまうところがあった”
第10章 日本、ドイツと同盟を結ぶ
1940年9月27日に日本は日独伊三国軍事同盟を締結する。モアーはいてもたってもいられず、旧知の今は外務大臣である松岡に直接電報を打つ。大使館経由だと暗号をかけられるので、意味がぼやける可能性もあるので、直接電信会社から打ったという。外務省に雇われている身としては、上長である堀内大使の許可を得ない電報発信は明らかな越権行為である。時は大統領選挙の真っただ中になってきた。モアーが最初に書いた電報の原稿は、用語に気をつけ相手を怒らせないようにした内容だったが、それを見直し、アメリカ国民の意見を代表するような内容に変更する。
“ワシントン 1940年10月8日
外務大臣 松岡洋祐宛
日本がドイツと同盟したことは、ヒトラーに対する英国の勝利を保証し、もし日本が参加すれば、日本とも戦うというアメリカの決意を強化させた。米国は必要とあれば、数か年にわたる戦争を遂行するだけの用意を整えているが、ヒトラーの崩壊は間近いものと予期している。日本にとっては、英語諸国から侵略を受ける危険は全然ない。英語諸国は、現在以上、アジア諸国の領土を欲しいとは思っていない。
誇大妄想的な大望を果たそうとすることで、すべてを危険にさらしてはいけない。
ヒトラーを頼ってはいけない。日本が米国と戦争しても、ヒトラーは日本を援けることはできないし、自分の得になるならば、日本を裏切るだろう。
日本にとっては証明済みの友人として、また長年、日本政府に仕えた身として、私は日本の指導者たちに、米国との武力闘争を避ける途を見出すように訴える。この電報を近衛に伝達してほしい“
これは外務省の公電ではなく、私的な電報である。外国人でなければ絶対に書けない内容だ。わずか10日前に三国軍事同盟を結び、意気揚々としていた外務大臣はこれをどう受け取ったのだろうか。モアーはこの電報を打ったことを堀内に告げると、堀内は外務省を通さずに、個人として勇気ある行動をとったモアーに好意的であった。モアーはこの三国軍事同盟が日米関係の終わりを意味すると固く信じていた。彼の筆は激情のあまり過激なものとなる。
“もし私が松岡の側についていたのなら、あんな同盟を結ぶことなど、止めさせることさえ出来たかもしれないという気がするーいまさら役にも立たない話であるが。そこまでもって行こうと骨折ってやってみたことだけは確かだ。場合によっては、松岡の頭の上を飛び越したことだろう。危機の間、何度も私は、自分が東京にいなければならないと考えた。それで、斎藤にも、堀内にも野村にもそのことを話して、東京に行かせてくれと言ってみた。しかし、誰も同意してくれなかった”
当時、日本人が大胆な言動をいたる所でしていた例として、モアーは、在ニューヨークの大蔵省、西山財務官に触れる。彼は、英国の窮状を豪も疑わず、「英国宥和派から情報を得ている」と言って、英国の敗北を信じて疑わなかった、米国は声が大きいだけだ、と心底思っていたようだ、とモアーは回想している。西山は、「礼儀作法の正しい、無作法な言動とは無縁の人物」であったので、そんな彼の浮かれた言動がモアーに強い印象を与えたようである。1940年の秋は大統領選挙の最中であり、両党とも英国を支持、ヒトラーを徹底的に攻撃していたが、アメリカが戦争に巻き込まれないことを公約としていた ― 直接的に攻撃されない限りは。我々の息子たちを海外に送って、他人の戦争で戦わせることはしない、と。なので、日本人が米国は戦争しないと信じたとしても、それは驚くに値しなかった、とモアーは言う。
“西山の考えは米国にいる日本人の間で盛んに言われていたものだが、仮にも西山のように、冷酷な計算に頼る財政学で鍛えられた人間が、いながらにして世界中のニュースが分かるニューヨークに住んでいて形勢をそんな風に判断しているとするならば、東京にいる日本人たちがそれと同じように情勢を見ていたところで、おかしくもなかった。ロシアはドイツと平和的な関係にあり、協調していたのだから、英国は単独で戦っていたのだ”
ここからモアーの筆は松岡洋祐との思い出に向かう。彼は以前、松岡と世界一周ともいえる旅行をしたという(国際連盟から脱退した時のことであろう)。彼は、松岡のために少なくとも12通の公文書と何十にも及ぶ演説草稿を書いたという。長い話し合い、時には衝突もあり、互いの人間を知り合ったという。
“私が初めて松岡に会ったのは1910年か1911年とかいう古い話でその頃私はAP通信の中国特派員として中国にいたわけだが、松岡は日本の外務省の新人だった。歳は私より四つか五つ若かった。いい顔立ちの、背は低いけれど、いい体格で、ちょっとずんぐり気味だった。アメリカ人の間に知り合いが多く、大抵の者は喜んで付き合っていた。松岡は話しっぷりも、やり方もすこぶるアメリカ式だったから、日本人仲間の間では、(松岡は)自分で自分をアメリカ人みたいに思い、アメリカ人みたいに振舞っていると言われていた。それが日本人仲間にしてみれば、松岡の身についた一つの値打だった。アメリカ人を相手にして、気楽に話し合える人間が必要だったのである”
“25の歳だったか、アメリカから日本に帰ってきて外交官の試験を受けて見事合格、中国北部の領事に任命された。初めて私が松岡に会ったのは、この時だった。その後また、1917年に会った。ここではヴェルサイユ会議の日本全権団の一員だった。こうして会ってはいるが、いつも私は新聞記者として会っていたわけだ。が、1932年になって、初めて同僚として日本の外交のために松岡と協力するようになった。松岡は私に電報を打ってよこして、一緒にジュネーブに来てくれないかと言って来たので、私は承知したと返電した”
これは、モアーにとって二度目の外務省勤務である。初回の外務省勤務は移民法案が成立したことで、居辛くなった、と述べられているが、やや不自然である。この二回目の勤務につながるほど、モアーは松岡と深い連絡を取り合っていたのだろうか。ともかく、この二度目の外務省勤務は満州事変と満州国設立に関して、国際連盟で日本が言い分を申し立てる必要に迫られていた時である。モアーはワシントンから東京に向かい、その後満州を訪問、シベリア経由でモスクワに向かう。そこで赤の広場の正面スタンドに案内され、ソビエトの革命記念閲兵式を参観し、スターリンをはじめとする共産党幹部を間近にみる。その時の感銘は大変なものだったようだ。その後、ベルリン、パリと数日ずつ滞在しながら旅を続け、行く先々でレセプションに招待されたという。ジュネーブの総会では有名な「堂々退場事件」について回想される。
“この時の全権代表一行の思い出で、いつまでも強烈なのは、松岡が傲慢不遜にも - と私には思えたが、それというのも、私がそんなことをしてはいけないと頼んでいたにもかかわらず - 手前勝手な、減らず口をたたいた後で連盟総会から退場した時のことだ。松岡は会議が休会になるのを待たなかった。前もって打ち合わせてあったので、全権団の残りの連中は、松岡の尻についてぞろぞろと示威行為をやりながら出て行った。しかし、私は出ていかなかった。じっとしていたが、あまりにも目立つので、とうとうこれ以上はいたたまれないという気持ちになった。満員の会場の中でたった一人、傍聴席はどこも満員でふさがっているのに、20席もの椅子が空っぽになっている真ん中で、一人だけ腰かけていたのだ”
この場面は、豊田穣はその著作、松岡洋祐 悲劇の外交官の中で次のように描写している。
「松岡は演説が終わると自席には帰らず、出口を目指して退場し、佐藤、長岡両全権ら約20名の日本代表団はその後に続いた。通訳のフレデリック・ムーアは日本人ではないので、少々ためらっていたが、やがて代表団の後を追った。」モアーは日本語ができないので、これは多言語から英語への通訳と言うことか?いずれにせよ、松岡退場の後のモアーの行動は実際にはどうだったのだろう。
アメリカは満州事変以降、日本に冷ややかなメッセージを送り続けていたが、そのアメリカ人が国際連盟総会へ出席する日本全権団に含まれていることは、考えてみれば奇妙である。
“ ある夜、記者連中は若手の疑い深い陸軍将校数名に後押しされて、みんなひと固まりになって、松岡のところに押しかけ、自分たちよりも先に日本の国事が一人のアメリカ人にわかるというようなことにさせておくのはけしからんと抗議した。松岡はその翌日、私と一緒に昼飯を食べながら、そのことを話してくれた。
「連中に、あなた、何と言ってやったのです?」 「わけはないよ」と松岡は言った。「君たちにはモアーはわかっていない。僕にはわかっている、あの男は信用できるということが分かっていると、こう言ってやった。あの男は自分が日本の手助けをしているので、自分自身の国に尽くしていることになると考えているのだ、と考えているのだ、とこう言ってやった」”
松岡の日本への帰途は、欧州大陸からニューヨーク、ワシントン、シカゴ、ポートランド(シアトルとあるのはモアーの記憶違いか)、サンフランシスコと経由し、太平洋を渡って戻るという、世界1周であった。前掲の豊田の著作では、その滞米中、松岡がアメリカのマスコミの注目を浴び続けていたことが詳述されている。松岡は多くのスピーチを米国各地で行ったが、モアーの協力が大きかったようである。
“米国では松岡が殆どいたるところで演説をし、私がそれを英語に仕立てていた。絶えず松岡を抑えよう、抑えようと骨折りながら”
1933年4月12日、松岡はアメリカ本土を離れる最後の晩に、サンフランシスコのラジオ放送で有名な「サヨナラ演説」を行う。この演説は日本の極東における動きを正当化しつつ、アメリカに理解を求めるも、両国の平和的な関係を強く訴える内容であり、アメリカ国内ではおおむね好意的に受け止められたようである。松岡はこの演説の最後を、「日本語のうちで最も美しい言葉の一つをお送りします、サヨナラ」と結ぶのである。この演説をめぐり、モアーは次のような内幕話を披露している。
“松岡がサンフランシスコを出帆する二晩前に、私たちはそれまでもよくやったように、ホテルの松岡の部屋で二人で一緒に夕食を食べた。食事がすむと松岡は、ちょっと重々しい格好で椅子に反り返って、私にこう言うのだった。明日のラジオ放送でやることになっている最後の演説でアメリカに向かってこう言ってやるつもりだ。「太平洋の君たち自身の側で君たち自身の仕事に気をつけろ、そうすれば君たちは日本と何の悶着も起こさずにいられるよ」と。「松岡」と、私は叫んだ。「そんな事、言っちゃいかん!」
「言うよ、モアー」と、断固として答えた。「もう腹は決まっている。米国各地でやってきた演説で、僕が話の筋をずっと発展させてきたものがこれなんだ」
「おお、松岡!」と私は嘆願した。「そんなことしないでくれ。全く、余計なことだ。不必要に挑発するものだ」
「問答無用だ。モアー、僕は自分が何をやっているか、自分でわかっている。君はさあ、こいつを演説の中へ書き込んでくれたまえ」”
松岡の意図を無視し、モアーは穏当な内容に原稿を変えてしまう。「我々両国民は各自がこの太平洋のそれ自身の側で各自の仕事に気を付けるならば、両国間に支障を生じるようなことがあるとは思えない」と。
松岡はサンフランシスコの船上でモアーと別れる際に、注目すべきメッセージをモアーに残す。
“僕が今やっていることは、ちゃんと考えたうえでの目的があってのことだ。だけど、僕がもっと偉くなったら、そのときには君はもう心配しなくても良くなる。僕は、そうなれば自分で仕事の指図をするし、うまいことやっていくよ”
松岡は自分の高圧的な態度は、軍部を意識し、目的あっての演技だと言いたいのである。その9年後、松岡は第二次近衛内閣の下、外務大臣となるが、彼の態度は相変わらず、大向こうの受けを狙った芝居に見えた。モアーは「松岡は偉くなり方が足りなかったのだろう」と嘆くのである。
第11章 日本への報告
本章のタイトルにある「日本への報告」とは、海軍駐在武官である横山一郎大佐が野村吉三郎新駐米大使へ書こうとしていたものを、モアーが請け負った報告書を指す。1940年12月23日づけで、この報告書は作成された。このとき既に日独伊三国軍事同盟は締結されており、モアーの報告書は日本の譲歩以外に、日米関係の改善はない、と言う内容で横山大佐をひどく落胆させる。
このレポートは30ページ以上にもなる長いもので、その内容には、今日振り返れば、誤りも含まれている。しかし、本書の執筆時点(1942年)、モアーは1940年12月時点では、誰もが情勢判断を誤っていた部分があった、と力説する。
ここに、本書ではそのレポートの骨子が再録されているが、注目すべき記述を以下に記しておこう。
- 米国政府は主としてドイツとの戦争の見込みを考えている。政府はイタリアとの戦争はありうるが、可能性は低いと考えている。政府は日本については迷っている。
- 米国政府は英国の敗北を防止する決意を固めている。
- 1940年10月13日の演説でルーズヴェルトは次のように述べている;「我々の進路は明白である。決心はついた。海外からの危険の可能性については、誰一人、疑いを抱いてはならぬ。邪悪の軍隊は一途に世界を征服しようとしている」この演説は日独伊三国軍事同盟の2週間後に行われたものである。
- 米国政府は日本が宣戦しないようにと希望している。しかし、もしも日本が宣戦すれば、大西洋と同じように、太平洋でも応戦する。
- 米国は中国のためには戦争しないが、フィリピンは防衛する。
- 米国はインドシナのことでは戦争しない。日本はその地域の支配権をフランスから奪取することになるだろう。
- 米国はシンガポール防衛を助け、蘭印の防衛をも助けるだろう。
- 日本軍の野望はヒトラーのそれと同じように飽くことを知らないものであると米国は見ている。
- もしも日本陸海軍が英国人をシンガポールから追い払うことに成功すれば、次は米国人をフィリピンから追い出しにかかるだろうと考える。フィリピンには独立を与えたいと思っているが、日本に従属させられるのを見たくない。日本の支配は暴虐なものだとみている。
- アメリカ国民は自発的に東洋から引き揚げようという気にはなっているが、追い出されることには反対する。パネイ号に対する攻撃をはじめ、日本の軍隊による数多くの小さい行為は、日本人の書いたものに現れたいろいろな声明と相まって、アメリカ人にこう思わせた。
- いくら利益を約束しても、アメリカ国民を説きつけて中国の資源を搾取する日本の計画に金融上の援助を与えることはできない。アメリカ人の考えでは、日本はヒトラーのドイツとスターリンのソ連と同類だということになっている。
- 米国には平和団体がたくさんあり、アメリカ人は一般に戦争に巻き込まれたくないと熱望していたため、日本人の中にはドイツ人と同じように、米国は何もしないでじっとしているだろうと勝手に信じ込んでいるものがたくさんいた。ドイツ人も日本人も第一次世界大戦の教訓を無視しているようだった。
- 科学とか技術とかいう方面の能力ではドイツ人は高度に有能な国民であるものの、他国民を理解する能力では低能である。日本人もまた組織と言う方面ではなかなか才能がある。その勇気も疑問の余地がない。しかし、他国民を理解する能力は間抜けている。
- 1940年9月27日に日本が独伊と同盟関係に入ったとき以来、アメリカ国民の考えは、全体主義国家と民主主義国家の間にはどんな宥和も可能ではないという確信に結晶してしまった。
- 日本が独伊と同盟関係に入ったことは、日本政府の失策だと思われる。ヒトラーもムッソリーニも信用できるような男ではない。二人の経歴を見れば、自分の利益になるときには裏切りをやってのける経歴がいくらでもある。
- 米国は過去3年の間に日本に対して武力干渉を行わないことによって、それが直接、中国のためには戦争を行わないことをはっきりさせてきた。しかし、1940年9月27日以来、米国政府は侵略に抗して自分自身を防衛している諸国民を援助するという政策をとることになった。
- もしも日本軍が、フィリピン、シンガポール、南印の土地の一つでも攻撃するなら、米国はその防衛を援助することになるだろう。そんなことになれば、米国はその時には中国のためにもまた戦うことになるであろう。
一読して感ずるのは、モアーの諦め、絶望感である。日独伊三国軍事同盟で、すべてが終わった、と。彼はまだ日本国外務省に雇用されている。しかしながら、彼はワシントンの在米日本大使館では誰と話をしていたのだろう。大使館員との間にも溝ができていたようである。野村新大使へのレポートの第一稿を見て、横山一郎大佐は大きく失望する。質問があるという横山に対して、文書で持ってくるように、とモアーは依頼する(このあたり、横山の英語力に問題があったのかもしれない)。その後、モアーに質問を持ってきたのは横山の使いの者であった、と書かれている。
横山一郎の回顧録、「海に帰る」(1980年、原書房)で、横山は次のように回想している。
モアーの報告書によってアメリカ人の時局感はまことに明らかになったが、日米関係を改善する方法は何もないことが明瞭となった。米国は穣る考えは毛頭ない。戦争を回避したければ、日本が考え直さねばならない。(中略)
とにかく、野村大使が日本出発前に、この報告書を読み、日米危局回避について、日本の指導者と突っ込んだ話をする機会がありますようにと念じつつ、報告書を東京に送った。海軍首脳部がこれに目を通したことは間違いないが、陸軍にも外務省にも見せてくれと申し送った方が良かったと、後から思った。
第12章 野村提督、大使館に来る
いよいよ本章から野村吉三郎が登場する。いわゆる日米交渉がこれから始まるわけだが、モアーの「日米関係は絶望的」という考えは大使館内に広く浸透していたようで、彼は日米交渉からは完全に排除されている。彼は大使館員から、米国のスパイと思われていたかもしれない。従って、これからは野村と個人的な、日米交渉とは離れた場面でのエピソードが話の中心となるが、それが非常に興味深い。
日米諒解案をめぐる話の登場人物である、ウォルシュ、ドラウト、井川忠雄、岩畔豪雄などは本書に一切登場しない。
“ 野村海軍大将と私とは20年来の知り合いだった。私たちは1921年から22年のワシントン会議で一緒に仕事をした。二人とも日本全権団の一員だった。それに、私たちはまた、東京でよく顔を合わせた。殊に、私が外務省にいて、野村大将が道の向こう側の海軍省にいた頃は、何度も会い、ずっと仲良く付き合ってきた。しかしそれは、両国間の意見の不一致が重大なものになろうなどとは、どちらも考えていなかった頃のことである。両国の関係がますます困難なものになろうというときになって、野村大将がワシントンに来たということは、どうにも疑う余地がなかった“
“ この6フィートの長身直立の海軍軍人は目覚ましい出世をしてきた。それは、財産や家柄によるものではなく、全く生地のままの才能と人格とでそれだけのものになったのであった。海軍を指揮し、天皇に助言したこともあり、退役後は学習院の院長に選ばれた。これは日本では栄誉の地位だ。阿部内閣の外相にもなったが、この内閣は中国の大部分の地域から日本軍を撤収させようとしたため、短命に終わった。”
職業外交官ではない、野村吉三郎の駐米大使という人事には様々な憶測が米国内でされていた。
“ 野村を閑地から呼び戻して大使に任命したのは、二つのうちの一つを意味するものだと私はみていた。つまり、日本政府は、野村の任命が、一定の自国の権益と威信を犠牲にしたとすることで、米国との関係を改善しようと決心したものか、もしくは、アメリカの政府や国民の目に、現在の日本がありのままに映らないようにする工作をさらに進めるために、立派な男をもう一人ワシントンに派遣して、もう一つの陽動前線を設置しようとするものか、この二つのうちの一つだ。私はその狙いが初めの方であれば良いが、と思った。 ”
モアーは旧知の野村をサンフランシスコまで出迎えに行く。野村を乗せた客船は米国の軍艦に護衛されてサンフランシスコに入港する。野村はサンフランシスコで軍関係者を中心とするアメリカ人の大歓迎を受けていたため、二国間の事態を憂慮していた在留邦人と会う時間は殆どなかった、という。
サンフランシスコからワシントンに向かう列車の中で、初めてモアーは野村とじっくり話し合う時間を持つことができたようだ。そこでモアーは野村が両国関係について予想通り、かなり楽観的であることを確認する。実際、野村が着任した1941年2月時点、日米開戦などありえぬという雰囲気は確かに米国に存在していたのである。
“日本の新聞は国民にアメリカの数々の弱点を説き、知らせていた。米国民は決して一致団結してルーズベルト大統領の外交政策を支持しているわけではない、ギャラップの調査によると、街の声は参戦反対が大多数を占めている。議会の反対派には共和党幹部はもちろんのこと、民主党の者もいる。大統領反対派が演説する大会には、数千の聴衆が集まってくる。ストライキは広範にわたって頻繁に起こっているし、中には軍需品工場や造船ドッグでさえもストライキをやっている。ドイツや日本では考えられもしないことだ。これは、みな、本当のことである。だから日本人の目には、議論の余地ない証拠のように見えた。こんなことで、どうして英帝国など救えることができるのだろうか?と。”
“ 米国が相変わらず、戦争だけはやらずにいるとすれば、英国の孤立無援の闘争はウィンストン・チャーチル内閣の崩壊で終わりを告げることになり、新しくできる後継内閣がヒトラーに降伏する段取りになる、と日本人は思っていた。西山財務官がニューヨークで言っていたのと同じことだ。あなたには、アメリカの役人みたいな考えができますか、できないでしょう?とサンフランシスコの日本人のある下級官吏は私に聞くのだった”
サンフランシスコで米国軍関係者の大歓迎を受けた野村は、モアーの悲観的な見方に全く同意できなかった。ワシントンへ向かう車中の会話は重苦しいものになっていく。これから暫くの間、野村は、モアーの話に耳を傾けるものの、国務省との交渉からは、モアーを遠ざける。
ワシントンの駅で野村を迎えたのは、国務省の課長とドイツ、イタリア両国大使館の参事官であった。新聞記者はこの枢軸国和合の写真を意味深長なものと煽った。
第13章 大使、ホワイトハウスを訪問
野村がワシントンに着任した1941年2月には、国務省の役人は日本人に対して、極めて冷淡になっていたようである。日本大使館の職員は彼らの態度にひどく腹を立てていた。
しかし、野村は到着した当日の午後、ハル国務長官に会いに行き、その翌日、ハルは野村をホワイトハウスに連れていく。この最初のルーズベルトと野村の会談は、親密さには欠けていたが、外交的には丁重なものであった、という。この最初の会談の記述は興味深い(モアーは同席していないので、すべて伝聞であろう)。
“ もしも二人が親密な態度を見せたら、二人は米国でも日本でも評判が悪くなったことだろう。どちらの国も、当時は温かい言葉遣いなんかさえも本気にしようとしなかったし、ありがたろうともしなかった。どちらの国でも、ただ断固たる決意のほどを相手に見せつけるのがいい、と考えていた。”
“ しかし、正式の手続きが終わって、その場に居合わせた数人の者が座って打ち解けた会話になると、大統領もニコニコと親し気な様子になったので、野村も救われた気持ちになり満足した。二人とも腹の底から笑ったし、両国関係についても冗談が飛び出したほどだった。”
野村の英語力に問題があったことは、加瀬俊一をはじめ、指摘する者が多い。それを裏づける記述がある。
“ 野村はルーズベルトの英語の見事さについても一言いった。大統領の言ったことは何もかもみな良く分かった、と。ハルについては何も言わなかったので、私はあのテネシー特有のまだるっこい話しぶりと南部風のアクセントが大将を参らせたのだな、と判断した。それにまた、大使が英語をちょいちょい妙な具合に発音して、日本人式の英語用法に慣れていない者にはてんで何のことかわからないものにしてしまう流儀も私にはわかっていた。この障壁を乗り切るために、二人は通訳を連れてきた。大使の通訳は一時、小畑氏がやり、国務長官の通訳はバランタイン氏だった – この人は何年か東京の米国大使館に勤めていて、日本語を勉強し、現在は国務省で日本関係を取り扱っていた。 ”
この頃の、国務省の日本人に対する冷たい態度は既に説明したが、これは、「米国政府の発表する(厳しい)文句ほど、実際には強硬なものではない、というような印象を議会や国民に与えないように心を配っていた」のだとモアーは解説する。
前任の堀内大使が離任する直前に、国務長官に伝達することを松岡外務大臣から厳命された強硬な覚書のことを野村は知らされていなかった。モアーから話を聞いてその覚書を読んだ野村は驚愕、立腹する。「松岡は重大な問題で不注意なことがよくあった」。
日本海軍がアメリカ海軍から受けていた尊敬の念 ― これは今日の我々に想像することさえ難しい。
“野村は昔気質の水兵で、軍務の掟の厳しさを誇りとするたちだった、ということを説明しておかねばならない。海軍へ入ったばかりの若いころの思い出となると日英同盟の時代へと遡っていく。それから、セオドア・ルーズベルトが大統領で、アメリカ国民が圧倒的に親日的だった数年間のことが記憶に蘇ってくる。野村は旧派の日本軍人の一人で、大使としてワシントンンへ来たときは63歳であったが、三大海軍国間の立派な関係を回復したいという願望は、今なお、野村の胸中に生きていた ”
“ アメリカの海軍将校たちは忙しい身ではあったが、提督大使の難しい仕事を助けるために、なんでもしようと申し出た。外国の大使として、任地の政府の、それも軍部の一つに親密な友人をもっているということは珍しいことだったし、野村はそのために楽しかった。 ”
1941年3月15日、ルーズベルトは有名な演説を行う。その中で英国と中国への支援を明確に打ち出し、枢軸国へ強い警告を与えた。これは今までにない強い警告文であり、望みは完全に断たれた、とモアーは感じた。大使館員の動向の記述として、興味深い部分がある。
“ 大使館員は自分(モアー)に対して冷たい態度になっていた。大使はそれを残念に思っていた。しかし、私は下の方の連中に、同情した。彼らに何ができただろうか。連中は、自分たちの政府が米国について正確な情報を手に入れ、正直な忠告を米国からしてもらうことを願っていた。他方、こういう人々は本国の指導者たちがもうすっかり腹を決めてしまっていて、真実を知ろうとしないことが分かってがっかりしていた。だから連中はゴルフやテニスやブリッジをやって遊んだ。そんな大使館員たちの遊びが必要以上に頻繁だ、と大使は考えた。しかし、私はそう考えなかった。連中は他にすることがなかったのである。 野村は肉体的にも精神的にも、並外れて旺盛な活力を備えた人だったし、それにまた、日米双方の責任ある地位を占めている人々とも接触できる立場にあった。大使館の他の連中には誰一人として、それほどの交際のある者はいなかった”
職業外交官ではなかった野村と大使館で勤務する外務省職員の関係はどうであったのか。加瀬俊一の著作に顕著だが、外務省のエリートたちは野村の、特に流暢とは言い難い英語力を小馬鹿にしている。野村は米国政府の役人や退役軍人からは比較的温かい目で見られ、彼らとの交際も続いていたこともあり、それが一層、外務省エリートの気に障ったのかもしれない。遊びに興じる大使館員の素行を快く思っていなかったという、モアーの目に映った野村は、大使館内で孤独であったのだろうか。開戦の通告を知らせる電報が大館員の怠慢で、米国政府への伝達が遅れたのは、その前夜の送別会が原因と言われる。一触即発で会った当時、街中で送別会をやっている事自体、驚きである。
野村と来栖はその送別会に出ていたのか?
日本人への風当たりは強まる一方である。
“ワシントンのいろいろなクラブはもう、日本人には会員としての特典を与えないようになっていた。前からの会員に、辞めろとは言はなかったが、新入会員の申し込みがあっても、認められることはなかった。私も実にありがたくない役目を仰せつかって、大使館員たちに、それも公使級までも含めて、こんなことを言わねばならなかった。私にはもう、私の属している各クラブへ、あなた方の名前を申し込むだけの勇気がない、と。”
“ 大使館の連中には、こういうのけ者扱いが強く神経にこたえた。それでアメリカの社交界からは遠ざかるようになった。最後の6か月から8か月と言うものは、大使館は自分を社交場の交際から隔離してしまっていて、アメリカ人と会うのはただ公式の場合か、商用の話し合いだけ、ということにしていた。野村はこういう状態を残念がっていた。 ”
そんな状況下で、新任の書記官が大使館に派遣されてきたときのエピソードがさりげなく語られる。情報官としての仕事について、その書記官はモアーに助言を求めるが、モアーは答える。
「事態はもう悪い方に行き過ぎている。大使だけがそれを変えることができるかもしれない。今のような時には、私やあなたのような下の人間のやれる最善の奉仕と言えば、何もやらないことなのだ」
事態を絶望視していたモアーであるが、3月15日のルーズベルトの演説に関し、以前と同じように、覚書を書いて、若杉公使に手交する。若杉でさえ、この覚書を注意深く読んだか分からない、とモアーは述べ、「東京へは送られなかっただろう」、仮に東京へ送られたとしても、「軽蔑の念をもって受け取られただろう」と推測している。その要旨は以下のとおりである。
- アメリカはもはや事実上の戦闘状態に入ったとみるべきである。
- 戦争反対の孤立主義者たちは相変わらず、演説を続け、新聞ラジオで報道されているが、ルーズベルトの「賽は投げられた」と言ったのは正しい表現である。
- イタリアは1年以内に降伏、ドイツは2年以内に降伏するだろう、と一般的には信じられている。
- 米国民は日本と武力闘争を行うことを欲していなかったし、今でも避けたいと考えている。
- 三国軍事同盟が事態を一変させた。松岡外務大臣のベルリン、ローマ訪問は米国の憤慨を一層大きなものにした。
- アメリカは領土的野心を一切持っていない。侵略に脅かされている諸国民を助けようとしているだけである。
第14章 ヒトラーが松岡を騙したとき
1941年3月、外相松岡洋祐は、シベリア鉄道経由でモスクワ、ベルリン、ローマを訪問する。いわゆる松岡外交である。モアーは、「近衛内閣は松岡の全能ぶりをこの頃既に疑い始めていた」と感じていた。
“ 他の閣僚は松岡が出ていくことに賛成しなかったし、ワシントンの大使は東京へ警告して、そんなことをすると、米国にいい影響を与えないだろう、と言った。(中略)独裁者めぐりに旅立つ前に、松岡は特別の訓令を与えられて、日本をもうこれ以上、ヒトラーの進路に深入りさせる約束をしてはならぬ、と言われた。野村大使は本国からの電信で、こういう訓令が(内閣から)出たということを知ったので少しは不安が薄らいだ”
モアーは松岡の日米調停者構想について説明する。
“松岡は、奇妙な様ではあるが、この苦難の世界の調停者になりたいという大望をいだいていた。海軍大将の野村をワシントンに派遣するときには、こんな訓令を与えていた。単に米国と仲良くやっていくだけではなく、日本と自分の青年時代の国とが、一つはドイツの友邦として、他方は英国の友邦として、二つ寄り合って仲裁人となり、仇同士の欧州列強を説きつけて、戦争を止めさせて講和の話し合いを始めさせることができないものか、これも見極めてくれ、と言うのであった。松岡の考えでは、大使は強腰になってアメリカ政府に談じ込まねばならぬのであった ”
1941年5月に松岡は、新しい通牒を米国に送る(5月11日づけのもの)。
“ この男は気分の人間だった。欧州から帰ってきて、以前よりもさらに日本の地位の強さと自分自身の見事な判断とに対する自信を深めたこの外務大臣は、今度の新しい通牒では、太っ腹な調子になっていた。松岡は理性に訴えた。 ”
“ 米国政府にお願いするのだが、世界の情勢を認識して、それに従ってその外交政策を立て直してほしい。アメリカの古い友人として、自分は、アメリカが地球の上に起こっている新しい巨大な変化を考慮に入れない針路のまま今なお進んでいくのを見ると心が痛む。 ”
モアーはこの覚書を野村大使が米国に伝達したか、知らない、という。この覚書は堀内が離任直前に、米国政府に手交することを厳命されたものとは異なり、丁重なる文言であったようだ。
1941年6月の独ソ戦の開始によって、松岡の外国事情に関する理解の限界が露呈し、松岡は近衛内閣を去ることになる。1936年の防共協定にもかかわらず、独ソ不可侵条約を1939年に締結し、その2年後には独ソ戦の開始である。
“ヒトラーの病理学的な傾向はとっくにもうわかっていなければならぬはずだった。けれども日本人は、その総力を出し切って既定の路線を突っ走り過ぎていたから、もう変えることができなかった”
この日本での状況に対するモアーの分析は以下の通りだが、この分析には違和感を感ずる。アメリカから見れば、当時の日本は本当にそのように見えていたのか。
“ 今更後戻りすることは不可能だった。既にもうインドシナを侵略して大東亜共栄圏の宣言を交付していた。ここまで来てから取り消すことは、 日本の国家にとって、物質的にはもちろんのこと、精神的にも破滅を意味することとなっただろう。軍部は何か新しいことをやってみせて、国民の血と貯蓄の犠牲に報いねばならなくなった。そうしなければ、軍部の威信は消しとんでしまうことになっただろう。これは天皇についても言えることで、国家統一の神聖な象徴である天皇に対する信頼の気持ちまでも粉砕してしまうことだろう。 ”
独ソ戦開始の1週間前に、モアーは野村にその可能性を告げると、野村は反発したという。
“ それは、まるで私が希望的観測をしていると言って責めるような口ぶりで、それもそういう文句すれすれの所まで、野村が口に出して言ったのはこの時が初めてだった。君はまるでヒトラーには思慮も分別もないと思っているようだね、と野村が言うので、私は、あの男は気違いだと思っている、と答えた。いや、そんなことはない、と大使が言うので、その時はそれでおしまいにしてしまった”
独ソ戦開始の直前,トルコからの情報は、ドイツ軍の大部隊が攻撃の射程距離内に集結していることを伝えており、チャーチルもその可能性を言及し始めていたのである。
モアーと野村の会話から、彼らの関係をうかがい知ることができよう。
“ ドイツのソ連への攻撃はワシントンの大使をドカンと一つ揺すぶった。東京の内閣を揺さぶったように。それで大使は枢軸国のものより良い、アメリカの新聞にでる記事を今までよりも余計に尊重するようになった。私は誘惑を抑えることができなくなって、とうとう口に出して言った、私の言ったとおりでしょう、と。 野村は善意にとった。ニコッと笑って頭を振ると、この時初めて、自分の地位の免除性を言い訳にして、こう言った。わしとしては何も言えない、わしは大使だ、と。ところが、僕はそうじゃない、だから思ったとおり喋ることができる。アドルフ・ヒトラーは本当に気違い野郎だ。 ”
“ある時、私はこういうことを言った。「あなたがハルと話をまとめることができないと言うなら、なぜ若杉にやらせてみないのですか。ウェルズとやるように?もしかすると公使の方が大使よりも適任者だったというようなことになるかも知れないからね。」「そうかも知れない。」と、大使は例の腹の底から押し出すような笑い声を立てた。そこで、暫くの間、公使が国務次官と話し合った。”
モアーは、日本のアジア進出については、批判的にみている。
“二世代以上も前から日本の軍国主義者たちの目標は確固不動のものだった。一つ、また一つと機会が来る度に、この連中は西太平洋にある自分たちの特殊領域から西欧列強を追い出す計画を立てた。この連中の目から見ると、日本人が、米国、カナダ、オーストラリアから締め出しを食らっている以上、英米人が東亜から追い立てを食らうのは理の当然、ということになるようだった“
“1904年には帝政ロシアを南満州から追い払い、1932年にはソヴィエト・ロシアを満州の北部から押し出した。第一次世界大戦の機に乗じて、ドイツ人を中国の山東省から追い払った-1914年のことだ。次はどこの国の番かということは、どんな機会がやって来るかということで決まる。1931年までは日本の政治家連中は、自分たちがこういう軍国主義者たちを抑えておくことができると思い込んでいた。それが、今は、政治家たちはーまだ官職に居残っている連中はー軍部が主張する通りのものを支持しなければならなくなった。日本そのものが軍部に隷属させられてしまったのだ”
しかし、中国大陸の広さは、日本軍と蒋介石の戦いを困難なものにした。
“もう事変が二年も続いていたので、それが日本を出血させていた。まだ、蒼白になるほど出血はしていなかったが、政府や国民が考えていたよりもずっと酷いものだった。その出費は1904年から、翌5年にかけての帝政ロシアとの戦争のときよりも大きなものであった。日本は自信がだんだん無くなって行った”
ここで、ナチス・ドイツが運命の神として割って入ってくる。
“ この神がかりの国民は、自分たちの国家が困難な羽目に陥ったときは、運命の神がそうしてくれるものと信じていた。運命の神はアドルフ・ヒトラーをこの世へ送って、欧州の列強を引き裂き、怖れおののかせ、偉大なる米国には、中国に同情して支持することを止めるようにと警告させた。神は蘭印という資源豊富な地域の門を開いてやった。 ”
“ 一撃のもとにあらゆる欧州列強を東洋から弾き飛ばすときがきた。フランスが壊滅したので、インドシナは防衛力がなくなり、オランダが席巻されたので、蘭領東インド諸島はつかみ取り自由となっていたし、もしもアメリカを参戦させずにおけたなら、英国の領地、属領もまた、防ぎようがなかった。 ”
第15章 野村の調停の努力
本章では、モアーの野村に対する見方が詳述される。
当時日本で支配的になっていた新しい、「東亜新秩序」、すなわち、古い大英帝国の時代は終わり、若々しい諸国家が立ち上がって、実際的な秩序を世界に打ち立てるという考えに対し、野村は同意していなかった、とモアーは観察する。
“ 野村と言う人は説得の方便として脅迫の手を使うような男ではなかったし、そんなものの効き目を信じていなかった。自分が自尊心のある男だったから、他人の自尊心にも心を配った。野村は日本人の中では旧派の考え方の人間だった。この派の掟としては、武力の行使ということを決して禁止しているわけではないが、ただ、その武力を行使するのは、権力や物質的な利得を手に入れるときのため、というよりも、正義を支持するときのために取っておくのだった”
“ドイツには多種多様の欧州の他の国民をいつまでも統治していけるだけの能力が果たしてあるのか、野村は疑った。また、自分の国には、東亜という、もっとも進歩の遅れた固まりを、この末永く支配してゆくだけの能力があるだろうか、とも。 ”
ここで、前任の堀内大使と野村の興味深い対比が行われる。
“ 堀内大使には、英国人があの中国の中央を流れる長大な揚子江口の上流の土地に君臨している態度を何か憤り、怒っているような気持があると私は見て取った。(しかし) 英国人が100年以上も前にあの土地へ住み着いた当時は、中国の状態が退廃していたから、あの土地を占拠したのも無理ではない、というのは本当だ。また、その当時の日本は理屈の通らぬ中世風の鎖国の存在だった、というのも本当だ。しかし、日本はもう近代的な進歩国家になったのだから、土地が隣接しており、死活的な利害関係という点から言っても、支配的な外国にならねばならない、といった主張が堀内のような平和主義的な傾向の人々の心にさえ、影響を与えていた。”
一方、野村は日露戦争における日英同盟の価値を身にしみて感じていた。そのため、欧米人がアジアで握っている利権を手放せ、と命令ずる気にはなれず、自然とそういうときが来るまで待てばよいと野村は考えている、とモアーは観察している。英米人をアジアから駆逐することの代償は日本が払う犠牲と引き合わなくなるだろう、と野村は冷静に判断している、と。
“ 野村は英米人が好きだった。というのは、英米人というものは、平和の方がいいと思うからだった。野村はまた、この二大海軍国の実力を知っていた。日本とナチス・ドイツの同盟は、野村の考えによると、永久に続くものではなかった。しかし、日本の国の政策を指図していたのは、海軍の軍人ではなく、陸軍の軍人だった ”
しかし、次のように語られるモアーの英国人観に果たしてどれだけの日本人が同意できるだろうか。
“英国人についていえば、長い年月にわたる経験の歴史からして、自分自身の安全とか福祉にとって死活的な重要性の無い問題ならば、他からの重圧に屈するのが癖になっている国民だった。ほんの最近にも日本政府に向かって、自分たちは譲歩するつもりでいる、と通告してきた。以前には日本軍の圧力に屈して、蒋介石にとって最後の心細い生命線であったビルマ公路を閉鎖することに同意している。こんな風に、英国人が日本軍の圧力という事実にいつでも直面している有様だったから、野村は米国を説きつけて、これを同じ線へ落ち込ませることができるだろう、という望みを抱いた。
要するにモアーはこう言いたいのである。中国はいずれ諸外国を外に追い出し、自立する。それが分かっていれば、日本と米国が中国のために戦争するなど、ばかばかしいことではないか。中国は、日本がそれほどの犠牲を払うほど値打ちのあるところではない。米国にとっても、日本との戦争と言う多大な犠牲を払ってまで、中国を守る必要などまったくない、と。
素朴、実直で平和的な解決を目指していた野村は、交渉が絶望的になるにつれ、消沈していく。その様子は、このように描写されている。
“ この人がワシントンにいた10か月と言う短い間に、どういう風にやってみたか、また、どういうことをやったか、これは記憶しておくだけの値打がある。やったことに何もかも私が知っているわけではない。大使が私を利用しなかった時期がちょいちょいあったからだ。最初のうちは特にそうだった(注:日米諒解案など)。自分では和解へもっていこうとしていたし、私の方では全くその望みがないと思っていたことを知っていたので、大使は他の人と相談していた。それが、とうとう自分でも望みをすっかりなくしてしまった。そこで、絶望はしながらも、「最後の土壇場で」なお一線を挑む腹を決めたが、アメリカ人で味方をするものがいなかったので、この人は私を自分の側に呼び戻した。この人の身の上に起こった敗北を振り返ってみると、悲壮なものがあった。ワシントンへ着いたばかりの頃の、あの腹の底から湧き上るような笑いは人の心を奮い立たせた。今は、去っていくつもりの、弱々しい笑顔は人の心を痛ませるのだった。
日米がそれぞれ、英独、日中の紛争を平和的に調停するなどという、日本政府の絵空事を米国政府は断じて受け入れないと、モアーは野村に強調する。実際のところ、ホイーラー上院銀、フーバー前大統領、リンドバーグ氏などの演説に、「日米による調停」の可能性を示唆するような内容が1941年当時も含まれていたらしく、野村はそういう言説に期待を抱いていたようである。しかし、そのような考えが米国内で有力になることは絶対にない、とモアーは言い切る。
“野村はアメリカの新聞を丹念に読む男だった。アメリカの新聞の自由と公明正大さを野村はよく褒めていた。大統領でさえも常に攻撃されていたし、漫画となればバカバカしいくらいの描き方をされることもある。アドルフ・ヒトラーの演説ですら、広い紙面を与えられており、その極悪無比な文言もきちんと印刷されていることに野村は目をとめていた。”
松岡が外相の地位にいる間、野村は米国政府との交渉を遅らせていた、とモアーは言う。松岡が解任された後、野村はモアーにハルとの話し合いに使うメモを作成してくれと依頼する。モアーの考えでは、日本は中国を征服した形にしない限り、撤兵はできないだろうし、インドシナからの撤兵も陸軍が絶対に了承しないだろうとみていたので、日米両政府の和解は、ほぼ不可能と考えていた。そういう考えのモアーが作成したメモは、野村の気に入る内容では全くなかった。
“お互いの意見がひどくかけ離れているにもかかわらず、二人は個人的には仲良く付き合っていた。二人の間でも、また大使館員の誰かとの間でも、いらいらした気持ちになることなど滅多になかった。大使も公使も今まで通り、いつも喜んで私と一緒に昼食や晩餐に出かけていた。”
しかし、
“その他の連中は、もうその頃には私や私の家族たちとの社交的な付き合いは避けていた。”
もはや自分が日米交渉の役には立たないと絶望したモアーは辞職を野村に願い出るが、慰留され、大使館勤務を継続することを決める。
本章の最後で披露されるエピソードは実に興味深い。
暫くして、野村は車で遠乗りをしようとモアーを誘う。車にはモアーと野村、そして外務省の職員ではない日本人が一人、合計3人が乗り込む。この普段、野村の仕事を手伝っている日本人の男が、ある条約案を見せ、それを国務省に持って行こう、と野村にしきりに勧める。それを聞いて、往時の米国政府、議会の対日感情を考えれば、米国の同意は得られまい、とモアーは反論する。車中での議論は白熱するが、最後に、「もしもドイツが戦争に勝ったら、米国はどうする?」という質問がモアーに突き付けられた。そうなれば、日本は米国との条約など考えずに、好きなことをすれば良いだろう、とモアーは突き放す。
“個人的な付き合いになると、躾のいい日本人というものは実に自戒心の強い人間で、これだけは他の国の人間には真似ができない。他の人種や国民なら、この時の野村みたいに自分と同じ国の人間と私が20分以上も、この男が提案した 条約について議論している間中、自分で自分を押さえつけているなんてことは、とてもできることではない。私たちは、大使のリムジンを運転手に運転させ、同じ座席に3人ならんで体をくっつけて座っていたのだが、大使は一言も言わなかった。そんな会話を初めから終わりまで、ただ聴いているだけのアメリカ人なんているものか!もう終わりというときになっても、この重大極まりない問題について、大使は何とも言わなかった。私たちは、メリランドの田舎町で食事をして、それからワシントンへ帰ってきた”
この茫洋たる野村の振舞は、どう解するべきか。彼の胸中はただ、絶望のみだったのか。
第16章 独ソ戦の日本への影響
1941年6月の独ソ戦開戦は、既に腫れもの扱いであった松岡外相が更迭される決定打となった。
“野村大将は本国政府に事実を報告する点では前任者二人よりはいい立場を占めていた。斎藤と堀内は本職の外交官だったから、その報告や意見が外務省以外の筋を通って内閣へ届くということは殆どなかった。野村はその身分から言って、外務省の頭を通り越して、少なくとも二人の、もっと地位の高い人、海軍大臣と首相のところへ行くことができた。海軍を指揮したことがあり、外務大臣もやったことがある野村だったから、その名声から言って、自分の好きな人間のところへ連絡することができた。しかし、野村が東京へ送った報告のおかげで松岡が早いところ内閣から追い出されたと言える半面、この野村の情報というものは、内閣にとって、全然歓迎できぬたちのものだった”
“ 国務省が大使館員を相手にする態度は丁重なものだったが、日本への取り扱いは相変わらず、監視と報復の態度だった。文書による抗議や議論はもうずっと前から役に立たないことが分かっていた。”
米国政府は徐々に中国への援助を拡大していく。モアーはそれを、「印だけの援助」と表現するが、それが日本の反米意識を強固なものにしていった。「協定ならば、どんなものであっても、戦争よりは良い」と、野村は何度も繰り返して報告したという。「どちらが折れるかということは、大使にとっては問題ではなかった」。
ここで、近衛とルーズベルトのトップ会談構想が持ち上がる。今日、我々が知るように、この会談は実現することがなかったが、野村は熱心に、この会談の実現に向けて、ハルと折衝を重ねる(この仕事にモアーは絡んでいない)。そのうちに、独ソ戦は進展し、日本軍の中国とインドシナでの作戦は展開され続ける。近衛には陸軍を抑えるだけの力が無いことを米国側に見透かされ、近衛は相手にされなくなるのだが、7月までの状況をモアーはこのように描写している。
“まるで進歩はしていなかったのに、行き交わされた通告分は、みな長文の事細かな内容の文書であった。どれもこれも、言葉だけは友好的なものだった。以前に両国の間で交わされた覚書で使ったような荒々しい言い方はされていなかった”
“アメリカも日本と同様に、その「会談」を続けていきたいと考えていた。それが続いている限り、日本は武力へ訴えることはしないだろうし、シンガポールでの英国の立場や東インドシナでのオランダの立場に脅威を与えることもないだろう、という望みが残っていた。この点は非常に重要な点になってきた。アメリカ海軍の一部が太平洋から引き揚げられ、大西洋に持って行かれたからだ”
7月上旬、日本軍による南仏インドシナへの侵攻が起きる。これが決定打となった。日本の外務省の声明は、「この軍隊の移動は防衛を目的とするものだ」というものだったが、これはこれまでの日本政府の声明と同様に、「アメリカ側の情報網を侮辱するもの」とモアーは断ずる。大使館に「日本軍の南部仏印進駐の確実なる情報を入手した」、と野村を訪問したハミルトン局長、バレンタイン参事官に対して、英米の重慶政府支援、経済的包囲網の理由により、それらの噂には驚かない、と野村は返答するに至る。
アメリカ政府は直ちに報復措置を取る。日本の在米資金の凍結である。ドイツとイタリアに対しては既に取られていた措置だが、ついに日本もその対象となる。
7月24日にハルが新聞紙上に発表した声明は激烈である。我々が見落としがちであるが、当時のアメリカはフィリピンと言う植民地を抱えており、南太平洋の安定と、その周辺国からの原材料の確保(ゴム、錫など)は、重要な課題だったのである。
多くの論者によって指摘されているとおり、この南部仏領インドシナへの侵攻が招いた米、英、蘭、からの反発に日本政府は驚く。いわゆるABCD包囲網の完成だが、なぜここまで日本はいじめられなければならないのか。日本国内の反米の声は一気に高まる。
“日本政府は慌てた。その指導者たちは、国家が戦争か屈服か、二つに一つを選ばねばならぬことに初めて気が付いた。数日とたたぬうちに、近衛内閣は覚悟を決めた。航行遮断線を解除させるか、それとも辞職して戦争内閣に道を譲るか、どちらか一つをやらねばならなかった”
ここで、近衛から太平洋上会談の申し込みが来る。今すぐにでも船を出す用意があると。ルーズベルトとチャーチルの同年6月の大西洋会談を模したもののようだ。それは身勝手な要請の電報だ、とモアーは記している。野村がモアーに後日、語った内容によると、
“大使はすぐさまその電報をホワイトハウスに持って行った。この時も、正規の手続きに従って、国務長官がついてきた。大統領は常と変わらぬ誠実さで大使を迎え入れた。それ以上の気持ちさえも見せた。首相からの電報を読み終えると、1,2分ばかり、好意のある様子でその提案を見つめていた。自分の考えでは、ここに提案されている会見はやってみる価値があるかもしれないと思う、と大使に言った”
“ハルが二人の話の邪魔をして、協定に到達できるという確実性が事前に存在しない限り、そんな会見は不得策だということを述べた。ハルの一言は、それだけで大統領には十分だった”
こうして近衛ルーズベルトの太平洋会談は幻と終わる。
近衛の電報に対する回答は、ルーズベルトの書簡と言う形で、野村のもとへ届けられた。
それは、丁重でよく起草されていた。提案を拒否していなかったし、希望を失わせる内容でもなかった。米国の疑問は質問の形で示されていた。即ち、「成果を収めることが確実でない限り、そういった会見に実際の価値がいくらかでもありうるのか、と」
“野村はこういう風に希望していた。両国の首脳がそれぞれ陸海軍の高官を連れてきて、一緒に顔を合わせたならば、互いに相手方に対して何か譲歩することができたに違いないし、相互の譲歩がそういった地位の人たちによって行われた以上、その協定は、双方の側の世論によって支持されることになっただろう、と。”
では、一体、野村が考えていた協定とはいかなる内容だったのか。それは、次のようなものだった。
- アメリカ政府は蒋介石に勧告して、日本政府との和平交渉を開始させる。アメリカが日中両国間に干渉したという形にしてはならず、あくまで日本と中国側を引き合わせるだけである。
- 蒋介石が和平交渉に参加しない場合、アメリカ政府は蒋介石政府に対する一切の援助は停止する。
- 日本は蒋介石政府に対して、損害賠償や領土の割譲は求めない。
- 日本政府は中国からの撤兵に同意する。ただし、南支、中支からの撤兵は、日本人居留民の生命、財産を守るため、徐々に行う。
- 北支各省の占領は無期限に行う。中国の共産党勢力、ソ連の潜伏勢力に備え、日本を保護する必要があるためである。
“ 米国政府としては、もちろん、こんな条件を承認することは不可能だった。そんなことをすれば、日本は戦争をしないで勝利を収めることになる。 ”
“どんなに私が個人的には深く、この人の好い大使に同情していたとしても、また、私自身、日米間の戦争は避けたいものだと心底から望んでいたのだが、やはり国務長官がここ数か月にわたって進めてきた道が、全体から見て、唯一、前に開けた道だ、と思わずにいられなかった。私は、協定が出来上がる前に、その確実性を確かめたいという米国政府の考えは正しかったと思う、と野村に言った。”
これに対して、野村がどう答えたかは、記されていない。しかし、二国間の交渉を終了させてはいけない、という点では二人の考えは一致していた。モアーはモスクワ攻略戦の結果が今後の独ソ戦、ひいては日本の立場に大きな影響を与えることをしきりに野村に強調する。冬はもうすぐ来るのだから、日本は待機すべきだと。しかし、長引く交渉は日本にとって不利になるばかりであって、早期に開戦すべし、と日本政府が判断していたことは、今日我々が知るところである。
11月25日の交渉期限は、野村と来栖には通告されていた。
第17章 日本、戦争内閣を組織
本書を読むうえで注意が必要なのが、モアーが伝聞で得た情報があたかも彼が当事者であった一次情報のように書かれている点である。野村が1941年2月にワシントンに着任した後、4月から7月までは、野村がモアーに全く相談しなかった時期である、と本章の冒頭に記されている。これは、日米諒解案をめぐる騒動、独ソ戦の勃発、松岡の解任、南部仏印進駐、在米資産の凍結といった時期に相当する。その後、近衛の太平洋上会見構想の話が出てくるが、このあたりからモアーは野村の相談をしばしば受けるようになる。しかし、この時点では、すでに両国の亀裂は決定的なものとなっていた。
“ 大使が私をのけ者にした理由は、私が、もう望みは無い、という態度をとっていたからだ。大使はやがて会談が何か成果を生み出すと希望するだけでなく、信じていたから、小煩い私と話すとがっかりするのだった。しかし、この期間中ずっと、助けてくれ、と私を呼び出すことはなくても、私が大使館に行けばいつでも会ってくれたし、ときどき昼食や夕食を共にした。大統領が太平洋会見という近衛の提案を拒否したため、大使には時間の余裕が増えた代わりに、この重大な題目について話し合えるアメリカ人が減ってしまった。話しかけることができる者は、他には誰もいない、というほどだった。”
野村は、上院議員のエルバート・D・トーマスとの面会をモアーに依頼する。トーマス議員はモルモン教徒の伝道師として一時日本に滞在したことがあり、野村とは着任直後の晩餐会で面識があり、互いに好印象を持っていた。何より、彼は外交委員会のメンバーの一員であり、米国の外交政策について詳細を知りうる立場にあった。しかし、トーマス議員は国務省に野村との面談の可否を相談した後、謝絶の返事を返してきた。野村がひどく落胆したことは言うまでもない。
この時のトーマス上院議員に関して、野村の著書では次の記述がある。
10月14日のムーア(モアーのこと)からの報告によれば、ハル長官はトーマス上院議員に対し、「日米交渉は忍耐をもって継続するも、日本はこれをもって、米国の弱点と誤認せざるを要す」、と言った由。
太平洋会見がルーズベルトに拒絶された近衛は、内閣を放り出し、辞職する。10月18日に東条英機が内閣を組閣する。
野村は、太平洋会見が行われない場合、日本は「じっとしておられない」とモアーにオープンに語っていた。それゆえに、新しい東条内閣が発足後、豊田、東郷の新旧外務大臣から、米国政府との交渉継続を指示する電報を受け取ったとき、野村は意外の感をもって受け止める。実際のところ、東条新内閣をめぐっては、野村は正確な情報を外務省から与えられていなかったのである。
“大使はこの二つの電報を力づけになるものと信じたい、と考えた。この頃、大使は私に何もかもさらけ出していた、と信ずる。大使館と国務省の間で取り交わした書類の束を私に見せて、これから先、どういう手が打てるだろうか、と私に訊ねた。他の所で相談できるほどの人たちには一人残らず聞いて回っていたので、とうとう私に力を貸せ、と頼んでいるのだ。私には、言えることなど、何も無かった。情勢は、もう本当に、どんな人間でも一人の力では何もできないところに進んでいた”
“しかし尚、大使にしても私にしても、強情に希望をつないでいたから、戦争になるとは信じられなかった。二人とも、自分の国の方から戦争をしかけるとは信じたくなかった”
本章では、モアーに記憶された、「すべてをさらけ出すようになった」野村の発言が、多く紹介されている。東条内閣となった、この時期に野村が英語で語り、外国人によって記憶された内容は、注目に値しよう。
“何度も何度も繰り返して私たち二人が大使の書斎で一緒に座っているときに、この大きな男はいつもの調子で、よく一区切りごとに長い合間を置きながら、私にこう言うのだった。「この二つの国が互いに戦い合うなどということは、罪悪だろう。苦しみ悩み、犠牲にならねばならぬ多くの罪のない国民全部に対する罪悪だろう。しかし、その罪悪を犯すこともあるだろう。それからまた、自分に反対しながら、こう言うのだった。「しかし、そういうことはないだろう。東京にはまだ分別のある人間たちがいる」と。内閣が変わって、軍部の連中がとうとう全責任を負うようになってから、野村と私が顔を合わせて、野村が何かの形でこういう同じことを言わないときなど、まるで無かった。”
それまでは殆ど口にすることがなかった兵力に関して、野村は語るようになったという。英米の軍高官がその軍事力について新聞紙上で語るようになると、野村は、モアーに語り聞かせた。「アメリカが太平洋を越えて戦争になると、相当な困難を覚悟しなければならない。これは海軍軍人として、自分にはよくわかっているが、アメリカ人はその困難を軽く見すぎている」と。
“アメリカ人は日本海軍の実力を低く評価している、と野村は言っていた。いつも静かな調子で話していたが、そういったことを絶えず口に出していた。もちろん、これは私に警告するつもりだったが、それを私が誰か責任のあるアメリカ人の耳にいれてくれればいい、そうすれば、アメリカ人も気にするかもしれない、という意図だった。日本国民は戦争となれば、頑張るものだよ、と大使は言った。どこまでもやり抜く国民だよ。どんな犠牲も厭わない。アメリカ人は日本がもうひどく弱っていると思っているが、日本にはまだまだ予備の兵隊もあるし、国民はとことんまで苦難を耐え忍んでいくだけの覚悟を決めている。あなた方アメリカ人のように物質上の資源は持っていないけれど、持っているだけのもの何もかも使っていくつもりだ。それに実に僅かなものだけで暮らしていくやり方を心得ている、と。”
野村はアメリカ人が、いざとなれば、死に物狂いで戦うことも知っていたが、こうも言っている。
“「それでも、やはり、日本人との戦争となると、事は容易ではない。僅か六か月くらいで戦争が片付くような訳にはいくまい。アメリカの新聞にはそんなことを言っているものもあるが、とても無理だ。僅か1年でも、というのも無理だ」 (何十億ドルのも及ぶ巨額の軍事予算の新聞報道を目にして )「しかし、時間のかかることだ。軍隊を作り上げるなんて、そんなことは大急ぎでやれることではない。訓練も研究もやらねばならないし、長期間の準備が要る。機械ももちろんのことだが、人間も要る」“
野村の著書に駐米英国大使のハリファックス卿に対して、野村が語った言葉の中に同様の表現がある。
「米国人は、ややもすれば日本海軍は短時日にやっつける、などと言っているが、日本海軍の伝統をみても、これはとんでもない間違いである。日本国民の生活は粗食にも耐えるのである。しかし、かかる戦争は無用と考えるから、これを防止しなければならぬと思う」(10月16日)。
ここで紹介された野村との会話は日米開戦前のことである。本書が書かれた開戦後の1942年にモアーは次のように記している。
“日本人の中で長年経験をしてきたにもかかわらず、私は日本人の決意とか能力とかいうものを過少評価していたことを白状しなければならない。こうして議論をしていたときは、その決意と能力が、野村が断言するほど強力なものだとは信じられなかった。我々自身の陸海軍将兵や英軍の欠点が、その後、はっきりわかってきたほど重大なものとも信じられなかった。大西洋の方からも、太平洋の方からも何かと警告は受け取っていたから、あの12月7日の朝に真珠湾で明白となったような、あんな先見と警戒の欠如と偏狭さが、高級将校の間にあったなどとは信じられなかった。”
モアーは野村のワシントン着任後の試みを次のように描写している。
“2月にワシントンへやってきたときは、ちょうど英帝国の運命が尽き果てようとしていたところで、(ただもうアメリカが全力をつくして干渉すれば救えるかもしれない、というところまで来ていたが、アメリカは手控えていた)、野村としては米国と日本が一緒になって干渉して全面的な講和の手はずを整えたいという望みを持っていた。そんな提案など、持ち出すことさえできない、ということが、分かってきた。そこで今度は欧州とは別に、日本と米国との間を解決したいという望みになった。これを実現させようと数か月にわたって双方に働きかけながら骨を折ってきたが、ものにならなかった。何にも増して、米国が戦争の圏外にとどまっているようにと願っていた。しかし、我々は一歩一歩と戦争に入っていった。宣戦こそしなかったが、我々は戦争態勢に入った。ひとつ、またひとつと野村の望みは消えて行って、最悪の災厄、自分の国と米国との戦争に直面しなければならなかった。こんな「罪悪」ですら、気の狂った人類は犯そうとするのだった。”
本章の最後に、Kという国会議員が自費でアメリカに来て、アメリカ政府に「わからせてやる」と息巻いたエピソードが紹介される。Kはモアーの自宅にも訪れ、長時間話し合うが、物別れに終わる。Kが希望していた国務省高官との会見もかなわず、Kは最後の日本船で帰国することになるのだが、滞米中、外務省が、米国の真意を日本に伝えていないと猛烈に非難する一方、三国軍事同盟は大失敗だと放言する。Kの滞米中、アメリカが援助物資である石油をウラジオストックに津軽海峡経由で送ることとなり、間違いなく、日本海軍はこの油槽船を停めるだろう、とKは予言したが、何も起こらなかった、という挿話が語られる。
“ ところが油槽船は停められなかった。航海に必要な数週間が終わって、石油は無事に届けられた。これは、どうやら不幸な出来事だったようだ。アメリカの官辺では、どうやら日本は米国と戦争するだけの気持ちがないのだという印象を持ったからだ。私には、どうもそういった印象が残った。 ”
第18章 野村、なお希望を捨てずに奮闘
7月の資金凍結後、日本大使館は全く社交界からは隔絶することになった。
日本人の金に対する潔癖さの例として、モアーに残った強い印象が語られる。
“ 日本人には、よく気を付けて、いつもまともにやることが一つある。金の勘定だけはきちんと支払うことで、殊に、相手が金の要る人の場合、余計にそうだった。だから大使館の職員にしてみれば、そういう連中に対して、いつものように、てきぱきと金を払えないのには、まごついた。大使館にはアメリカ人が6人か8人雇われていたが、書記とか速記者など、この連中は相変わらず給料をしっかり貰っていた。官邸の方の執事、コック、運転手なども同じことだった。しかし、てきぱきと払えない勘定もあって、そのために、何度も何度も平謝りだった。それでもしまいには、みんな支払いを済ませたし、中には、理由もないのに、余分の金を一緒に渡したりしたものもあった。アメリカ人の使用人がそんな金を受け取ったが、開戦後、スペイン大使館に呼ばれて支払いを受けた者もいた”
7月末に資金凍結がなされて、交渉は事実上打ち切りとなり、11月半ばに来栖特命大使が着任するまで、野村は何もできない状態だった。この時期に、野村とモアーは頻繁に会って話をしている。
“私は、いわば、野村にとって、アメリカ国民と接触する上での最後の紐だった。他の人間との間には、何か障壁があった。公式の関係とか、無理解とか、疑念とか用心とかいうものがあった。(中略)野村が、自分で「交渉」と呼んでいたものから私をのけ者にしたので、あの時は悲観したが、今となって、また私と一緒にいたいと言ってくれたので、私は喜んで野村の話し相手になったのだ。”
本章で紹介される様々なエピソードは野村の人となりを伝え、実に興味深い。
“何か特別の理由をもっているときは、大使の部屋で会ったが、それ以外は会うのは午後の書斎だった。昼食のあとで私が出かけていくと、野村は大抵、書斎でアメリカの新聞を読んでいた。そして、何か一つの記事を選りだしておいて、私が行くとそれを見せて批評するのだった。”
“三時過ぎになってから書斎に会って、何時間か情勢の重大な局面について話し合うこともあったが、そんな時は、もう大使に他の約束がなければ、私たち二人は遠乗りにでかけるのだった。誰か他に一人、一緒に行くような場合だと、大使は自分のリムジンを出すようにいいつけるけれど、私と二人だけででかけるときは、私の小さいセダンの方が良いというのだった。私が運転して、自分は前の席で私と並んで座るのだった。”
一度、道中に出会った一人の男から、「あなたは野村大使ではありませんか」と声をかけられた。その男は製造会社の社長で神戸に住んでいたが、日米関係が立ちいかなくなったので、最近、アメリカに追い返されてきたのだという。こういう目にあったアメリカ人がたくさんいた、しかし、その人は目には憎しみの色はたたえていなかった、とモアーは記述する。
“田舎へ車で出ていくことは、奇妙な心理的影響を野村に与えた。そういう遠乗りに出かけていく前には、大使館でやっている私たちの議論が、よく野村の「その罪悪を犯すこともあるだろう」とか「それはもう神任せだ」とかいう文句で打ち切りになってしまうのだった。ところが、新鮮な空気を思い切り吸い込んで緑の牧場を眺めてきた後では、「そんなことになってはいかん」とか、また、「そうはならないよ」とまで言うのだった。田舎の人々の微笑と好意と感謝が気に入ったのだ。こういったものは、私たちが車を止めるところなら、どこにでもあった。晩飯を食べに入った宿屋にも、ガソリンを入れに立ち寄った給油所にも、それからまた、アイスクリームを買いに寄った、「ホット・ドッグ」のスタンドにも。”
のどかな田園風景がしばし、野村に現実を忘れさせたのだろうか。片田舎の人々は、この時点では日本人に対して、悪感情をさほど持っていなかった、ということらしい。いつもたっぷりとチップを与え、勘定も決してモアーに払わせなかったという。野村はモアーにすっかり心を許し、本音を語っていたようである。
“野村は時々、自分が使命を果たすことができなかった、と言って、自分で自分を責めようとするのだった。「自分ばかりが悪いと思わないでおきなさい」と、私は言うのだった。「あなたがやったこと以上には、やれるものじゃなかった。誰だって、やれはしなかったのです。戦争がはじまるというとき、たった一人の人間が、4,5か月前になって、それを止めようと思っても、そんなことはできるはずがない。仮に今、戦争を止めることができるなら、そのためには5年も前にそういった努力をしていなければならなかった。」”
野村とモアーのドライブは続く。
“ あるとき、私たちは走り疲れたので、一休みするため、車から降りて、岩の上に座り込んだ。牧場が見えた。牛が草を食んでいた。大使はあの牛の方が人間より、ずっと人情味のある動物だね、と言った。「あの連中は少しばかり草を多く取ろうと思って、お互い殺しあうような事はしないよ」と、言った。”
“一度、車を走らせているときに、私はこんなことを言った。もしも、野村が日本と米国を和解させることに成功したならば、野村は多分、暗殺されるだろう、と。「そんなことは問題になるまい」と、大使は言った。「罪もない者をたくさん救えるならば、たった一人の生命なんか」 「でも20年もたてば」と、私は言った。「あなたのために、記念碑を立てることになるでしょう」。「そんなことだろう」と、大使は言った。
野村とモアーは家族や、大使館職員を交えた付き合いも、短い間ながらしていた。
野村が2月に着任してすぐ、モアーは家に野村を招待する。召使などいない、妻と2人の娘の4人家族である。モアーは、妹娘の方が、「平和主義者でどんな代価を払っても、平和を守るという性質」であり、「日米戦争の題目が出てくれば、それだけでは止まらず、日本が中国に戦争を仕掛けたことを自分はどう考えているか、ということまで喋るだろう」と、野村に事前に伝える。野村は、笑って、お相手をしましょう、とモアーに答えた。
“一つのことだけを別にすると、娘たちは、なかなか行儀よく振舞っていた。会話の間に割って入って、余計な口出しをするようなことは無かったし、変に目立つほど一人だけそっぽを向いているようなこともなかった。一つだけ別にしたというのは、会話が戦争のことで深刻な調子になったので、大使がその場の緊張した空気をほぐそうと思って冗談を一つ飛ばして笑ったときのことだ。「笑いごとじゃありませんわ」 と末娘がきつい様子で言った。「なぜ笑うのですか?」しかし、こんなことを言われても、大使は苦にしなかった。私たち一家のものが好きになって、その後は若い日本人たちと一緒に、即席のパーティーに招いてくれた。
末娘の厳しい反問に遭って、野村はどういう返答をしたのだろうか。興味深いエピソードである。
11月になり、来栖が特任大使として着任する直前、そういった若手の日本人たちとの即席パーティーが最後のパーティーとなった、という。野村が気にいっている、ポトマックの下流にある、大使の好きな宿屋で夕食会を行うことをモアーは提案する。この頃、日本人はアメリカ人社会から、ほぼ弾かれていた時期である。野村は同意し、英語の勉強をするために米国に派遣されていた、4人の外務省の若手職員とモアーの家族を含め、10人での夕食会となった。残念なことに、この興味深い10人が顔を合わせた夕食会で、何が話題となったかは、一切記述がない。しかし、モアーはここで、「語学研修生」として、米国に派遣された青年たちに、強い興味を持ったようである。
“ その日本の青年たちは、ほんの最近、試験をパスして外交官の世界に入ったばかりであり、それにまた、米国に着いたばかりであったから、こんな風にアメリカ人と一緒の席に座るのは初めての機会だった。みな、とても感動していたので大使は喜んでいた。大使はこの夜、なかなかの上機嫌で、青年たちを捕まえては、わしは日本と米国が和解できるよう、多年にわたって骨を折ってきたし、今でもわしは協定に到達できると信じている、と話していた。”
昭和16年11月、まさに開戦前夜であるが、そんなときでも、外務省は「語学研修生」米国に派遣していたのである!米国に到着してから1年間、研修生たちは英語を勉強し、その後で、大使館や領事館で実務研修をするのが慣例だったようだ。しかし、その時点では、太平洋を横断する汽船の運航は、ほぼ途絶に近い状況になっていたのである。もはやホームステイ先のアメリカ人家庭も、大学の教室も、研修生にとっては心地よい場所ではなくなっていた。米国でも同様の制度は存在していたが、米国はしばらく前から、研修生の日本への派遣を中止していた、という。
モアーは研修生のうち、印象に残った一人の若者を個別にクラブでの昼食に招待する。
“そのクラブは政府の職員がたくさん昼食に集まってくる所だったので、この若い日本人は私が指差しして教えてやる人たちの姿をみただけで、ぞくぞくと身に沁みるのだった。(中略)この青年は痩せて小さい男だった。27歳だったが、アメリカの少年なら14歳の者と比べても、大きいとは言えなかった。青年は、困ったような様子をしたが、ぼくが弱々しい格好をしているのは、今まで、いいものを食っていないからです、と言った。ひと月前に、横浜で船に乗り込むまでには、腹いっぱい食べたことは、滅多になかったのです。でも、今はもう、ガイムショウから月々俸給も貰いますし、米国のように食物の豊富なところで暮らすのですから、身体を立派なものにしたいと思っています、と。
この痩せた青年は、帝国大学の出身ではなく、家が貧しかったために、子供の頃から働かねばならず、有名な学校には通ったことが全くない、とモアーに問われた青年は説明する。モアーはこの青年の英語を駆使する能力が、海外経験を持たない日本人としては最上のものだった、と述懐する。
“両国間に戦争の可能性があることと、大方のアメリカ人の日本に対する態度を話し、日本への悪感情はこれから先、長い間、続くだろう、と私は言った。私自身はその結果を見届けるほど、長生きする者とは思えなかった。が、この青年は多分、将来、親善の回復を実現する上で、重要な役割を果たしたいと思うであろうし、実際、そうなるかも知れなかった。”
実際のところ、この語学研修生たちは、アメリカの家庭や大学には入ることなく、中米に向かったとのことである。
第19章 攻撃の準備
本章では来栖三郎が特命全権大使としてワシントンに着任し、ハルノートを受領するまでの様子が描かれる。この時期は、日本政府は既に日米開戦の決意を固めており、その準備を周到に行いつつ、最後の見せかけの交渉をしていた、とモアーは述懐している。
来栖の渡米に先立ち、11月4日の夕刻に、彼が東条英機(首相)を訪問した際の様子が、著書「泡沫の35年」に記されている。東条は、来栖に対し、米国の世論が対日参戦を支持していない、とし、米国の戦争準備が不十分であると説明するのである。これは、モアーの指摘、野村の著書の記述と異なっている。東条は、米国の本気度を著しく過小評価していたと言わざるをえまい。
来栖の渡米について、野村はモアーにあらかじめ説明していた模様である。
“野村は前にもこのことを話していたが、今度また、もっと詳しい話を聞かせてくれた。来栖は数か月前、ベルリンから東京へ戻る途中、ワシントンを通り過ぎて行った。駐独大使として、あの三国軍事同盟に署名したのはこの男だったが、間もなく更迭されてしまった。代わってベルリン大使館の主に任命されたのは、陸軍高官の一人、大島浩中将だった。ずっと前に、来栖はアメリカのいろいろな都市で領事をしていたことがあり、アメリカの夫人と結婚していた。野村は、来栖を腹の底からの軍国主義者とは見ていなかったし、外交家としての経験も知っており、交渉の手腕も認めていた。それで、ワシントンに立ち寄った来栖に、ここへきて自分を助けてくれと頼んだのだ。野村は、来栖が三国同盟に署名したのは、自分の本心から賛成していたわけではなく、東京からの命令に従っただけだと信じていた。今度の特命大使というのは、アメリカ政府との間で紛争を平和的に解決するつもりでやってきたと、野村は思っていた。”
来栖の前述著作の中に興味深い記述がある。来栖はかねて三国軍事同盟に反対であり、その交渉が自分の頭越しに松岡外相とリッペントロップの間で進められたことに不満であったため、ドイツ大使を辞任し、それが松岡に承認される。帰任挨拶のためにヒトラーを訪問した来栖はドイツとソ連の関係が急速に冷え込んでいることをヒトラーから聞かされる。シベリア鉄道を使わず、大西洋航路、アメリカ大陸横断、太平洋航路という帰任ルートにリッペンドロップは大変訝しがる。サンフランシスコで会った陸軍の岩畔大佐は、このまま来栖がアメリカに残って、野村を助けたらどうか、と言う。
「今(昭和21年)から考えてみると、すこぶる変則ではあるが、あるいは自分がそのまま米国にのこった方が良かったのかとも思う」。
これは、野村による日米交渉に対する、外務省の本音、というべきものか。
モアーは来栖とは旧知であったが、それは社交上のことだけで、一緒に働いたことは無かった。モアーの本書における来栖評は厳しい。それは、ハルの回顧録に書かれている来栖の印象とぴったり重なる。野村は日本政府の言い分をはっきり国務省に伝えていない、だから、米国にわからせるために、来栖が送り込まれた、と野村も後日、モアーに語ったという。
“(来栖が持ってきた新しい)その訓令とは、日本の経済封鎖は解除しなければならぬ、さもなければ、日本はそれを打ち破らねばならない、ということをアメリカ政府にはっきりわからせようとするものだった。何も脅迫するというのではなかったが、そこに含まれている意味は、間違えようのないことになっていた。”
これは、本書が書かれた1942年当時、開戦後の述懐である。来栖が渡米した1941年11月時点では、モアーは(米国政府も)日本人が米国と戦争をするだけの図太さがあるか、まだ、疑っていたのである。日本の決意に気づくべきであった、とモアーは悔やむ。来栖は旧知であるモアーに対して他人行儀であり、話している時間はない、といった感じが伝わってきた。
この来栖の振舞や野村の様子が目に見えて変わってきたのを見て、モアーは疑念を起こすようになってきた。来栖が着任してから、野村と遠乗りのドライブをする時間も無くなり、野村は昼食、夕食を一緒にとろうとも言わなくなった。野村の微笑までもが歪んでいた、という。
来栖と野村は、この時期、最終ステージの交渉を国務省と行う。日本が示した、甲案、乙案である。モアーは再び、野村達からのけものにされることになる。
11月20日に、野村と来栖は国務省に赴き、日本政府案を提出する。
“それは、今までアメリカ政府が提案してきたものと比べると、そのどれからも根本的に違う内容だった。日本政府はその軍隊を南部インドシナから撤退させると申し出た。その軍隊を北部の仏印に移駐させて、そうすることによって、タイ国と蘭印が脅迫を感じないようにする、というのだ。その代わり、日本は、こう要求する。アメリカ政府は今すぐ遮断線を解除して、日本との通商関係を再開し、日本に石油を供給する。と、こういうのだが、これでは、日本政府は北部インドシナまたは中国のどの地域からも撤兵することに同意しない、ということになる。アメリカ政府は、遮断線を解除する代わりに、この二つの土地から撤兵せよと、前から要求していたのだ。日本の見地からすると、この提案は相当な屈服だったが、アメリカ側からすればそうではなかった。この日本からの提案では、中国を日本の掌中に残しておくものだった。アメリカ政府は蒋介石政府を支持する点で深入りしすぎていたので、この提案に同意すれば、「自由中国」を裏切るに等しいことになる“
この日本提案に対する回答が11月26日、ハルノートとなって示される。
その一箇条には、「日本国政府は中国からもインドシナからも陸海空軍と警察力のすべてを撤収する」と、規定してあり、日米両者の開きは相当なものがあった。ハルノートの内容は、直ちには公表されなかったが、新聞は、国務省が両大使に最後ともいえる通牒を突き付けた、と書き立てた。
その翌日、大使館を訪れたモアーに野村はハルノートを見せる。来栖が着任以来、暫くの間、のけ者にされていたため、モアーは驚くが、ハルノートの内容は、新聞で報道されているほど、過激な内容ではない、という印象を持つ。今後の交渉の扉も閉ざされていない。
野村は、モアーの感想を聞いて喜ぶが、国務省の立場が、以前のように(日米諒解案が議論されていた4月以前)硬化した、という印象をモアーに漏らす。ここで、モアーは言う。
“政府と言うものは、結局はいろいろな人間からできているものだ。事実に対して反応するだけの機械ではなく、個人的な感情に連れて動くことがよくあるものだ。通牒を一つ提出する方法にしても。つまり、それを提出する人間の個人的な態度が影響を与えることがよくあるものだ。”
来栖への言及こそしなかったが、彼の振舞いをモアーは、遠回しに非難した。それほどまでに、来栖の振舞いがアメリカ人を苛立たせた、ということであろう。来栖の態度がハルノートの内容に影響を与えた、というモアーの指摘は記憶に値する。
わが国では、ハルノートの提出をもって、米国政府は日本との交渉継続を打ち切った、という見方が一般的だが、果たして本当にそうだったのか。日本が逆上して、開戦を仕掛けてくることも当然予想しただろうが、日本が望めば交渉は継続の用意があったのではないか。事実、ハルは、「(日本軍の中国からの撤兵について)時期を書いておらん!」と、語ったと伝えられている。
“不幸なことに、英国政府は、日本軍が1941年に攻撃を開始するとは信じていなかった。その前年の方が状況は遥かに有利だったのに、その時でさえも、攻撃を開始することはできなかったのだから、と、言う風に見ていたのだ。アメリカ政府も信じられなかったに違いない。そうでなければ、真珠湾であんな不意打ちを食らうはずがなかったし、奇襲だと言って、抗議するはずもなかった。”
「宣戦布告なき攻撃、だまし討ち」の汚名を日本は今日に至るまで、長年背負うことになるのだが、これは、米国政府の「してやられた」、という驚き、自分自身の見通しの甘さへの腹立ちが、日本憎しの感情を倍増させたのである。
モアーの来栖評は次のような意地の悪い描写となって表われる。
“来栖は普通の大きさの日本人で、野村より1フィートほど低かった。海軍大将の体格は若いころに運動の練習をしたことがはっきり分かった。特派大使の方は、学生生活の頃を思わせた。一方は頑丈で、他方は気取った風采だった、と、言っても、その中年のスタイルは腹が出っ張っていた。野村の動作は鈍く、来栖のは素早かった。この方の英語はずっと巧かった。これは、もちろんアメリカ人の細君を相手に長年使いなれているせいもあるが、また、外交官になるために必要だから、一生懸命になって勉強したせいでもある。けれども、この緊張した状態の下では、海軍軍人の方ほどいいとは決して言えなかった。それにまた、ちょっと気取った歩き方をする癖があった。”
“大統領に会いに行ったのは、天皇からの信任状を提出した時のほかは、一回きりだったが、国務省を訪問する方は、野村大将と一緒にいくのだが、これは国交が断絶する直前の3週間、ずっと一日おきくらいにやっていた。私はなにも来栖がどんな振る舞いをしたか、はっきりしたことを聞いたわけではないから、私の意見は色々なことから割り出したものだ。野村は他人のことをとやかく言うような男ではなかった。しかし、その後、ばたばたと起こった出来事からみて、話は分かり切っていた。そういう出来事に野村は苦悶し、来栖は微笑した。来栖にとって、事件は、みな当然の成り行きだった。この男の態度と言えば、「どのみち起こってくる事に、何をじたばたするのだ」、といったものらしかった。来栖は大使館の中を威勢よく歩き回っては、次から次へと仕事を片付けていた。野村は滅多に書斎から出なかった。二人で国務省へ行けば、先任者の方が上席を占めたが、特派大使が交渉の指図をしていることは、見え透いていた。”
本章の最後に、天皇へのルーズベルトからの親電工作の経緯が明かされる。美術史家であるランドン・ウォーナー(Langdon Warner)がモナーの所へやってきて、大統領が天皇に直接メッセージを送れば、効果があるのではないか、と聞いてくる。モナーは遅すぎるとして否定的な返答をするが、それに不満足だったウォーナーは、エルバート・トーマス上院議員にこの提案を持ち込む。意外にもトーマス議員はこの思い付きに同意し、モアーに野村との連携を指示する。藁をもつかもうとしていた野村は、ルーズベルトの決断に最後に望みをかけるのだった。大統領もこの案に同意、12月5日の金曜日にこの親書は発信された。しかしこの親電が天皇に届いたのは、真珠湾攻撃の後だったことが今日では知られている。
開戦直前の大使館の様子を伝える二つのエピソードで本章は終わる。
“あの忘れることのできない12月7日に先立つ1週間というものは、大使館でも、国交の最期が今にも来るぞ、というような意見だった。私は月曜日の12月1日の朝、職員登庁時の10時に出かけて行って、幾人かの館員が仕事にとりかかろうとしているのと顔を合わせた。 一人の文官が、まだ望みはあるか、と私に訊ねるので、私が首を横に振ると、「今日の国務省での会見が最後のものになりそうですね、えらいことです」と、言った。陸軍武官の補佐官が一人、私と握手をした。海軍武官もそうした。どちらの男にも私は、もう顔を合わせるのはこれが最後だろう、というようなものの言い方をした。「おはよう、いかがですか」と、言っただけで、二人とも黙っていた。それでも私は、「こんなことになって、お気の毒だ。ならないようにできれば、と思っていたのだが」と、言った。何も答えないで、二人は自分たちの部屋の方へ行ってしまった。”
“その日、後になって、公使の若杉氏と広間で出会ったところ、「ちょっと」自分の部屋に来てくれ、と言った。この人は達者な人ではなかったので、疲れ果てた、という様子だった。「情勢はひどいものです」と、言って、私に、アメリカの国民はどう思うでしょうか、と聞くのだった。「それはもう、間違いようがありません」と、私は答えた。「どこまでも団結しますよ」と。
第20章 大使館、最後の会議
本章は真珠湾攻撃になるまでの、モアーと日本大使館の最後の日々の様子が語られる。
本章のタイトルにあるように、来栖とモアーが激しく意見をぶつけ合った、最初で最後の討論の様子が本章の中核である。
それは、12月4日の木曜日、真珠湾攻撃に三日前の夕方。
その日の午後、モアーは、野村を大使館に訊ね、望みは無いと思いつつも、「何かしなければならない」という衝動にかられ、話し合う。ハルノートを野村に再びみせてもらい、書き写しながら、野村に自分の考えを伝える。特に、日本軍の中国からの撤兵時期が言及されていない点をモアーは強調する。日本軍の中国からの即時の撤兵は、その撤兵軍との対峙となる可能性があるため、米国にとってむしろ不利となる、日本軍が中国にとどまっていた方が米国にはむしろ都合が良いはずだ、と。モアーの話に動かされた野村は、来栖を呼んで、彼にも話を聞かせようとする。
“「私は来栖を知らないのです。あの人とは社交的な話をしたほか、今まで何のかかわりもないのです。」こんなことを言ったのも、実は、もう一人の大使と私は、もしかしたら、冷静に話し合うことは出来ない、ということを野村に警告するつもりだったし、それで、大将も納得した。がっかりした様子だった。「誤解しないでください。来栖を連れてきてください。私はただ、あの人を呼んでくる前に、あなたに承知しておいてほしかっただけです」。 野村は私を残したまま出て行って、来栖を連れてきた。来栖は楽しそうに、微笑しながら入ってきたが、やはり、相手に食ってかかる様な物腰だった。”
財務官の西山も加え、4人の話し合いが始まる。
“来栖は私の方を向いたが、それがまるで、「さあ、やってくれ、聞かせてもらおう」と、言っているようで、私はしゃべり始めた。ところが、まだ大して話もしないうちに、この男は人の言うことを聞かせてもらうつもりはないのだ、という感じがしてきた。それでも、ただ野村大将に対する礼儀だけから、猶予してやっているのだぞ、と言う風に思われた。そんな来栖の態度は、もしも私が前もって覚悟していたのでなければ、我慢ならなかったことだろう。”
来栖は何を今さら、と言う風な態度をとる。
“来栖は、「情勢がもう非常に悪化してしまったので、みんなもう遅すぎる」、と言った。それから、アメリカの政策の悪いところや間違いについて、喋り始めた。微笑を浮かべながら、冷静な調子で、それでも、しっかりした口ぶりで喋るのだった。「わかっている」、と私は言った。「アメリカ政府が常に公平だったとか、賢明だったとか言うことはできない。しかし、今は、どちらが悪いという問題をとやかく言ってみても役に立たない。焦眉の問題は、戦争を防止することだ。」ここで、野村が口を挟んだ。大将がそんなことをしたのは、この時だけだ。こういうのがやっとだった。「それをわしも言うのだ。今は、良いの悪いのを言っても無益だと」”
しかし、来栖、そして西山も繰り返す。「日本はもう待てない」と。
今日、東条内閣から交渉期限を切られていたために、来栖がかくも焦っていたことを我々は知っている。
この最後の話し合いで、来栖と西山は「待てない、もう時間がない」と、何度も繰り返す。
以前は数字の分析に基づいた冷静な議論をしていた西山財務官が、「来栖の到着以来、まるで変わってしまった」と、モアーは感じた。西山はまるでヒトラーのように、こういうのだった、「わが軍はもう今となっては止まるわけにはいかない。どうしても前進しないでは、おられなくなった」。
来栖も続ける、「4年も中国と戦争してきた今となって、日本が払った兵員や資源の犠牲に対して何ひとつこれというものを示さずに、撤兵せよと日本に要求することが公平だと言えるのか?」
“それこそは、もちろんアメリカ政府が日本との平常な条約関係を再開するための必要条件として要求していることだった。それに、もちろん私としては何とも答えられるはずがなく、ただ、「なぜ日本はそんな戦争を始めたのか?」と、答えるしかなかったが、こんなことを言えば、相手を怒らせることになっただろう”
来栖はさらに、国務省のハル長官、サムナー・ウェルズ次官とホーンベック特別顧問をやり玉にあげ、激しい言葉で彼らを非難する。モアーはこの3人の高慢だったり、過度に中国びいきだったりする側面があったことを認めつつも、よくアメリカのために働いてきた、と弁護する。(来栖は、自著の中で、いかにも洗練された外交官らしい人、とウェルズを評しているのだが)。
“私は数か月前に、野村大将にこういう人達の話をしたとき、野村はこういうことを言った。日本の国民はホーンベックと言えば自分たちに敵意を持つ男だと思っているし、だからまた、そういう男が国務長官の極東問題の顧問格になっているのは不幸なことだと思っている、と。だから、(全く違った側面を教える)私の話を聞いて喜んでいる、とも言ったが、こうも言うのだった。日本人と言うのは、一人の人間をつかまえると、あの男はこうだとか、ああだとか言って、レッテルを貼るのが癖で、人間が変わったとしても、一度つけたレッテルは取り換えようとはしないのだ。これは日本人の欠点だ、と。この話が、来栖が喋っている間、私の頭に浮かび上がってきた。野村は無論のことだったろう。”
来栖はモアーに対して、最後まで挑戦的だった。
“ 「ところで聞きたいのだが、モアーさん」と来栖がだしぬけに言った。「解決がつくという望みが、あなたにはあるんですか?」 「ない」と、私は、はずみで、きつく答えた。「望みをなくしてから1年になる。」「しかし」と、私は言った。「眼前に破局が迫っていても、何とかして防ぎとめようと、やってみないではいられないのだ」 「なるほど、それで何の役に立つのかな?」と、来栖はひょいと肩をすくめた。私たちは、野村と話をしていた、ハルノートの肝心のポイントまで、結局、話を持って行かなかった。
翌、金曜日、モアーは和解策を考えた、というかつてフィリピンで宣教師をしていたアメリカ人の男を野村の下へ連れていく。その策とは、日本の天皇に、東京で交戦国家全部の講和会議を招集させる、という非現実的なものだった。それでも、野村は丁寧に応対したという。
“野村大使は辛抱強くその男の話を聞いていたが、そんなことはとてもできない、と言った。帰りがけに大使とその男は心を込めて握手した。大使はそのアメリカ人に、よく来てくれた、と礼を言い、その男はどんなことが起ころうとも、自分は友人としての気持ちをなくさない、と言った。(中略)その宣教師と私と二人で一緒に大使館を出たが、外へ出たところで宣教師が言った。「やって良かった、骨折って良かった。やらずにおけば義務を果たさなかったというような気持がしたに違いない」”
前日の土曜日、12月6日。「大統領の天皇へのメッセージが日本人を正気に返らせるだろう」と、言う気持ちにモアーはなった、と記している。しかし、明るい気持ちで、午後に大使館に野村を尋ねると、暗い表情の野村を発見し、意気消沈する。野村は言った、「だめだ、出るのが遅すぎた」と。このとき野村は対米通告について、知らされていたのである。
そして運命の日曜日である。12月7日の正午にモアーは大使館の野村を訪問する。奇しくも、それは真珠湾攻撃開始の時刻だった。書斎にいる野村は日本からの電報を読んでいた。最後の覚書である。
“野村は覚書のことも、自分がこれからハルに会いに行くのだとも話さなかった。それでも、最後のときがきているのだということを匂わせる素振りを何とか私にして見せた。例えば、また、「神様まかせだ」と言ったが、「まだ望みを捨ててはいけない」とは、言い足すことはしなかった。(中略)大将はそこで、トーマス上院議員には、骨折ってもらってありがとう、君からもよろしく言っておいてくれ、と言った。私は言っておきます、と言った。そんなところへ、来栖が入ってきて、いつものように、私にはちょっと頭を下げて笑いかけながら、書類を一つ野村に渡して、日本語で何か一言、言った。そして、入ってきたときと同じように、威勢よく出て行った。そこで私も退散した。12時半だった。”
そして2時半過ぎ、モアーはラジオで真珠湾攻撃の報に接するのである。