本書はデジタル版で購入が可能なようであるが、今日、昭和史に興味を持つ人々にもっと読まれるべき、興味深い小説だと考える。近衛文麿に関しては、一般読者向けに、夥しい書物が既に出版されており、近衛自身の著作も容易に入手可能であるが、本書は近衛文麿と言う日本近代史に決定的な影響を及ぼした人物を鮮やかに描き出している。近衛文麿の人生の最終章、具体的には昭和15年7月の第二次近衛内閣発足から20年11月、その自死までに焦点を当てた物語である。加えて、昭和天皇、東条英機、松岡洋祐、尾崎秀実、リヒャルト・ゾルゲ、中野正剛をめぐる挿話が脇を固め、開戦から敗戦に至る我が国の中枢の動きが、今日の読者にもわかり易く展開される。
私の手元にあるのは、昭和27年に六興出版社から出された3分冊であるが、著者、立野信之はあとがきで、次のように述べている。
「私は近衛文麿と言う人を直接に知りもしなければ、その風手にも接したことはない。ラジオでその声くらい聴いていたはずだが、その記憶もない。そればかりでなく、本書に登場する、東条英機、松岡洋祐、尾崎秀実、リヒャルト・ゾルゲ、中野正剛その他の登場人物は、殆どが未見の人々である。要するにそれらの歴史上の人々は、尾崎とゾルゲを除いて、私にとって何の興味もなかったし、従って無縁の人々だったのである。にも拘わらず、それらの人々をあしらって本書を書き出したのは、第二次世界大戦を中心とした、日本の近代史を書きたかったからである。私の興味の焦点は、敗戦による国家権力の崩壊と共産主義との対決という問題にかかっていたのだ」
「国家権力の崩壊と共産主義の対決」という主題が一般読者にどこまで意識されるかはさておき、本書は面白く、一気に読める。ぜひ、手に取っていただきたい。
尚、本書の登場人物は政治的な大物以外は仮名(バレバレではあるが)が使われている。
- 東園寺一郎、尾崎秀美と「アジア」で時局について談合をなすこと
- 尾崎、秘書宮田キヌ子をを映画に誘うこと
- 尾崎、ゾルゲに会い、それから桑井に行くこと
- 犬丸賢、桑井で近衛新党をしきりに要望すること
- 松岡洋右、近衛に秘書官にでも使ってくれと申し入れること
- 岩瀬龍雄、遠藤勇之助と近衛公の前で口論をなすこと
- 杉山陸相、米内海相を閣議の席でどなりつけること
- 近衛公、政変の報を受け、急ぎ軽井沢駅を降りること
- 近衛公、浴槽に浸りつつ、三階節を鼻歌で歌うこと
- 近衛公、細山邸に病める次女を見舞い、それから重臣会議に赴くこと
- 松岡、荻外荘のテント村で見得を切ること
- 尾崎、女秘書と映画見物の約束を果たすこと
- 尾崎、ゾルゲ宅で若い日本婦人を見かけること
- 犬丸賢、内閣書記官長を買って出てつまみ出されること
- 犬丸、自動車を駆ってサロン春に赴くこと
- 犬丸、桑井で東園寺らから慰められること
- 板垣、近衛公をペテンにかけ、自ら板挟みにあうこと
- 松岡、オットー大使に大見得をきること
- 尾崎、朝飯会で三国同盟に反対意見を述べること
- 三谷速子、ゾルゲの机から、ドイツ夫人の写真をみつけること
- ゾルゲ、オートバイ事故で大けがをすること
- 犬丸、対蒋秘密工作の情報を聞き、大いに立腹すること
- 尾崎、犬丸より日華基本条約案を密に借り受けること
- 尾崎、娘にダヌンチオの詩を口ずさんできかせること
- 吉田海相、一陸軍将校につきまとわれて病気となること
- 東條、四相会議で日本の主要目標が対米戦であること発言すること
- 有馬伯、荻外荘を出て立小便をしているところを新聞記者にみつかること
- 松岡、スターマー特使と秘密会談をなすこと
- 園公、三国同盟の成立を知って、天皇の周囲に人がいなくなったと慨嘆すること
- 尾崎、外務省で東園寺一郎より情報を得ること
- 近衛公、三国同盟に対する海軍の胎を知って愕然とすること
- 尾崎、レストラン・リッツでゾルゲと情報交換をなすこと
- 近衛公、天皇の前でいけぞんざいであること
- 某新聞記者、おトキを四ツ谷駅まで車で送り、色々聞き出そうとすること
- 近衛公、赤阪の待合篠井で新体制の難航を尾崎にはなすこと
- 尾崎、満鉄ビルから提灯行列の火の海を見て、日本の終末を感ずること
- 近衛公、園公危篤の報を聞いて、静かに涙すること
- 近衛首相、大政翼賛会の憲法違反問題で窮地に陥ること
- 松岡外相、近衛公に枢軸国訪問を申し入れること
- 松岡外相の訪欧、世界中の注目を浴びること
- 松岡使節、関東軍の一将校から注意されること
- 松岡、車中で早くも対クレムリン外交をなすこと
- 藤村海軍中佐、三人の給仕男の中に日本語を解する者がいること感づくこと
- 松岡、スターリン会見、日ソ不可侵条約を提案すること
- ドイツ側の歓迎の鮮やかなこと、しかし料理の貧弱でまずいこと
- リッペンドロップ外相、松岡に対ソ関係の悪化を密に伝えること
- 松岡、ヒトラーに日本の政情を打ち明け、時が来れば日本の指導者になると豪語すること
- 松岡、リッペンドロップに対英攻撃を打ち明け、対ソ策について腹を探りあうこと
- 松岡、ローマ法王を啓蒙したと威張ること
- 松岡、独軍のユーゴ進撃の報をきいて泰然自若たること
- 松岡、日ソ交渉が暗礁に乗り上げ、気を腐らせてレニングラードに観劇に行くこと
- 松岡、スターリン書記長に直接書面を書き送ること
- 松岡、芸術座で英首相チャーチルの密書を受け取ること
- スターリン、調印式後、松岡使節一行を歓待これつとめること
- スターリン、松岡を駅頭に見送り、外国使節を驚倒させること
- 近衛、松岡外相の帰朝を一刻も早く促すため電報を打つこと
- 近衛公、松岡の帰朝が遅れるのでいらいらすること
- 松岡、人造石油の話で満鉄の人々を煙に巻くこと
- 松岡、悪天候に阻まれて、帰朝を一日のばすこと
- 近衛公、松岡の宮城遥拝を避けて、ただ一人先に帰ること
- 松岡、日米交渉が近衛の筋でなされていることを知り、激怒すること
- 近衛公、松岡の反対に遭って気を腐らせ、「病気」になること
- 尾崎、独ソ戦必至の見通しについてゾルゲと情報を交換し合うこと
- 松岡、武力南進せぬという日本の確言を削除すること
- 松岡、荻外荘に近衛公を訪問し、野村大使の「越権」を難詰すること
- 松岡、汪主席と歌舞伎座で観劇中独ソ開戦の報を聞き、少しも動ぜぬこと
- 対ソならびに対英米開戦論を言上して天皇を驚愕させること
- 尾崎、東園寺から御前会議の様子を巧みに聞き出すこと
- 尾崎、北方危険を予測して、動員兵力の配置をつぶさに調べること
- 松岡、近衛公の書簡に感動して、夜中、荻外荘に電話をかけること
- 東條、松岡に馬鹿呼ばわりされ激昂して詰め寄ること
- 近衛公、葉山御用邸に伺候、委細奏上のうえ、鎌倉山の別荘に泊まること
- 近衛公、鎌倉山の別邸にて、ひとり感慨にふけること
- 近衛公、自動車の中で富田書記官長に総辞職の心境をのべること
- 松岡、辞表提出の後、御殿場の山荘にひきこもること
- 豊田、外相就任早々、日米交渉の暗礁にあい、夜もろくろく眠れぬこと
- 近衛公、ルーズベルト大統領との直接会談を決意し、陸海両相に打ち明けること
- 野村大使、努力に努力を重ね、近衛ルーズベルト会談にやや曙光を見出すこと
- 東園寺、参謀本部が対ソ行動を起こさぬことを決定したことを尾崎にもらすこと
- 尾崎、娘を連れてゾルゲと会見に赴くこと
- 天皇、励声一番、杉山参謀長を決めつけ、永野軍令部総長が助け舟を出すこと
- 天皇、御前会議の席上で異例の発言をなし、明治大帝の御製を朗々と読上げること
- 近衛公、細山邸でひそかにグルー大使と会見し、心懐を吐露すること
- 近衛公、アメリカ側に尽くすべき手を尽くし、運を天にまかせて鎌倉山に赴くこと
- 尾崎、満州で対ソ戦中止の状況をつぶさに観察し、眼を日米交渉の見通しに向けること
- 近衛公、東條から人間、一度は清水の舞台から飛び降りる覚悟が必要だと言われること
- 尾崎、検挙を漠然と予感し、要するに死ねばいいだろうと覚悟を決めていること
- 宮城、国際諜報網の発覚をおそれ、築地署の取調室から飛び降り自殺をはかること
- 東條陸相、鈴木企画院総裁を使者として近衛首相に辞職を勧告すること
- 尾崎、警視庁特高課員らの手により目黒署に拘引されること
- 尾崎、コミンテルンのスパイとして取り調べられることを知らされ、驚愕して失心すること
- 尾崎、世界革命の一環としての東亜新秩序論を述べること
- 尾崎、何もかも自白した後、係官に捕らわれの心境を語ること
- ゾルゲ、鳥居坂署の特高にアッパーカットを喰らわすこと
- ゾルゲ、身辺の危険を予感し、上海逃亡を企てて失敗すること
- 政府、統帥部一体となって、開戦のための御前会議を開くこと
- 近衛公、百姓になろうか、学校を建てようかと迷うこと
- 古田、近衛公をスイスへ何となく滞留させる案を木戸内府に進言すること
- 近衛公、清水の舞台から飛び降りる覚悟で痔の手術をすること
- 近衛公、ゾルゲ事件の検挙の手が身辺に及ぶことを極端に怖れること
- 東條首相、国内の結束を乱す者はいかなる高位高官でも、断固処分すると宣明すること
- 近衛公、戦争終結についての上奏を周囲から勧められること
- 中野正剛、日比谷公会堂で東條内閣批判を獅子吼し、堂々三時間半に及ぶこと
- 東條政権、戦時刑事特別法の成立によって、防弾チョッキに身を固めること
- 近衛、木戸に会い、軍部の「50年戦争計画」なるものについて話すこと
- 近衛、山本長官戦死の報をいちはやく知り、三田武夫にもらすこと
- 中野、臨時議会の代議士会で、翼政幹部を茶坊主と罵り、鳩山と共に脱退すること
- 細山、機転をきかせて後からつけてくる憲兵の自動車を停め、威すこと
- 近衛、東條の憲兵政治の脅迫にあい、天皇に直訴すると息巻くこと
- 近衛らのグループ、後継内閣の首班として宇垣擁立に動くこと
- 重臣会議、東條に居直られてウヤムヤに終わること
- 三田、戦刑法の倒閣謀議の嫌疑で先ず捕らえられること
- 三田、看守巡査の禅問答で留置場の生活の無聊を慰められること
- 中野、天野らと共に検挙され、警視庁に留置されること
- 中野、憲兵隊に身柄を移され、三田、温泉に連れていかれること
- 中野、憲兵隊の護衛付きで自宅に帰った晩に自決して果てること
- 細山、高松宮に東條を絞め殺すから呼びつけてくれと迫ること
- 酒井、ドイツの和平交渉に関する極秘の「須磨電」を近衛に漏らすこと
- 近衛、尾崎事件では実に嫌な思いをさせられた、と富田に述懐すること
- 古田、宇垣に修正内閣組成の成算がないことを知り、宇垣を見限ること
- 岩瀬、湯河原で静養中の近衛に岸国務相が東条に叛旗を翻した情報を齎すこと
- 岡田、嶋田海相に辞職を勧告し、東條に呼びつけられて威嚇されること
- 東條、木戸に内閣強化の相談を持ち掛け、逆に木戸から三条件を出されること
- 東條、総辞職の閣議席で岸国務相を裏切者と面罵すること
- 近衛、後継首相詮衡の重臣会議で、陸軍部内に赤化思想があると述べること
- 近衛、岩瀬の助言から、小磯、米内連立内閣を思い付き成立させること
東園寺一郎、尾崎秀美と「アジア」で時局について談合をなすこと
満鉄ビル(虎ノ門)- 昭和館デジタルアーカイブより
昭和15年7月、東園寺一郎(西園寺公一のこと)と尾崎秀美の満鉄ビル内レストラン「アジア」での会食場面からこの作品はスタートする。「アジア」は、屡々本作品中に登場する場所で、尾崎がよく使っていたのであろう。
米内光正内閣が陸軍に潰されるのは確実で、後継総理に近衛が立つべきではない、と二人の意見は一致する。
西園寺公一
尾崎、秘書宮田キヌ子をを映画に誘うこと
共産主義者尾崎秀美とリヒャルト・ゾルゲの上海での出会いのエピソード。当時尾崎は大阪朝日の上海特派員であった。
尾崎、ゾルゲに会い、それから桑井に行くこと
尾崎は鳥居坂のゾルゲ宅で、米内内閣崩壊の見通し、近衛が後任とならざるを得ないこと、陸軍が三国同盟を一気に結ぶ圧力をかけること、汪精衛が日本の支援に不満を漏らしている事などが語られる。近衛はソ連嫌いだが、ソ連との戦争は避けるだろう、とも。ゾルゲは尾崎の情報に満足し、次回の密会を約す。
犬丸賢、桑井で近衛新党をしきりに要望すること
本書での犬丸賢とは、犬養健(犬養毅の息子)のこと。

犬丸、東園寺、尾崎、牛端(牛場友彦のこと)の木挽町の待合での会話。松岡洋祐が近衛詣を軽井沢にする、という情報。
松岡洋右、近衛に秘書官にでも使ってくれと申し入れること
松岡洋右が軽井沢の別荘に近衛を訪問し、首相に再登しろ、その際は自分を秘書官としてでも使ってくれ、と頼み込む。近衛は満更、悪い気がしなかった。
松岡洋右

岩瀬龍雄、遠藤勇之助と近衛公の前で口論をなすこと
遠藤勇之助は後藤隆之介のこと。
近衛の行くところ、陸軍が送り込んだ観念右翼、用心棒などが入り込み、近衛にもはや逃げ場は無かった。組閣前から近衛には疲れが見える。
杉山陸相、米内海相を閣議の席でどなりつけること
陸軍の意向は、米内の後継者は近衛ただ一人であることが確認された。日本を取り巻く環境は第一次近衛内閣の昭和12年に比べて遥かに悪い、と近衛は考えており、全く乗り気がしない。
第一次近衛内閣のとき、杉山陸相が閣議の席で大陸進出の限界地点を言及したことで、「こんな場所で!」と米内海相を怒鳴りつけた。
近衛公、政変の報を受け、急ぎ軽井沢駅を降りること
第一次近衛内閣

近衛には第一次近衛内閣の苦い思い出が蘇る。統帥権を盾に、日華事変で暴走する陸軍に対し総理である自分は無力であった。再び総理になっても、同じことが繰り返されるだけだ。悩む近衛の下に、米内内閣総辞職の報が齎される。
近衛公、浴槽に浸りつつ、三階節を鼻歌で歌うこと
荻外荘に戻った近衛をマスコミが既に待ち受け、異様な雰囲気が室内からも感ぜられた。
近衛公、細山邸に病める次女を見舞い、それから重臣会議に赴くこと
細川温子
重臣会議に臨む前、近衛は細山護定(細川護貞のこと)に嫁いだ次女の温子を目白の細川邸に見舞う。
細川護貞
松岡、荻外荘のテント村で見得を切ること
松岡洋祐は近衛から外相就任含みで荻外荘に呼び出しを受けるが、近衛に会う約束時間の前に、新聞記者に写真を撮らせ、早くも外相気取りである。
第二次近衛内閣発足
尾崎、女秘書と映画見物の約束を果たすこと
秘書宮田キヌ子は、尾崎に誘われアメリカ映画、オペラハットを観る。宮田キヌ子妻子ある上司、尾崎に恋心をいだく。
尾崎、ゾルゲ宅で若い日本婦人を見かけること
ゾルゲの家を訪問した尾崎は、ゾルゲの愛人と思しき背の高い日本人女性に会う。ドイツ人が経営する酒場の女給で、尾崎はそんな女がゾルゲ宅に出入りしていることに危険を感ずる。
石井春子
犬丸賢、内閣書記官長を買って出てつまみ出されること
犬丸は近衛に自分を書記官長として使ってくれ、と直談判に荻外荘へ乗り込む。強引な犬丸な売り込みに、近衛は激しい嫌悪感を覚え、犬丸を屋敷からつまみ出させる。
犬丸、自動車を駆ってサロン春に赴くこと
汪兆銘を漢口から脱出させた功労者である自分に対して、けんもほろろの応対をした近衛を犬丸は恨む。やけくそになって、銀座のバー、サロン春に向かい、なじみの女給、愛子と一夜を過ごす。
犬丸、桑井で東園寺らから慰められること
犬丸は桑井の待合で、東園寺、牛端、尾崎に会う。昨日の荻外荘での一件は、彼らには知れ渡っていた。国内にいてもムシャクシャすると、犬丸は南京で一仕事してこよう、と思い立つ。
板垣、近衛公をペテンにかけ、自ら板挟みにあうこと
第二次近衛内閣が組閣される。内閣書記官長には富田健冶が、陸軍大臣には陸軍の推挙する東條英機をそのまま登用した。第一次近衛内閣の改造の際、石原莞爾、多田駿の意見を聞いて板垣征四郎を陸軍大臣とし、一気に日華事変を解決に持ちこもうとしたが、板垣が全く期待外れの馬鹿者で、石原・多田に一杯食わされた、という苦い経験を近衛は回想する。
松岡、オットー大使に大見得をきること
松岡外相は精力的に活動を始める。面会したクレーギー英大使、グルー米大使には一切、言質を与えず、煙に巻く。
クレーギー大使

グルー大使

一方、オットー・ドイツ大使に対しては、東亜新秩序から更に踏み込んだ、大東亜共栄圏の意義を強調し、ドイツの対日協力の姿勢の明確化を迫った。さらに、ドイツの対米、対ソ戦略を問いただし、その迫力にオットー大使は圧倒された。

尾崎、朝飯会で三国同盟に反対意見を述べること
朝飯会
第二次近衛内閣の発足により、首相官邸での朝飯会が復活する。三国同盟が話題となるが、重臣は皆、反対している。ロンドンの重光葵大使も独伊の敗戦を見越し、同盟へ猛反対。尾崎も反対の意見を述べる。
三谷速子、ゾルゲの机から、ドイツ夫人の写真をみつけること
三谷速子は、ゾルゲの机の中に妙齢の女性の写真を見つける。ゾルゲはそれをオットー大使の夫人で、かつて自分と恋仲にあったと説明する。ゾルゲに抱かれた速子は、その強い腕力に抗しきれず、愛欲に溺れていく。
ゾルゲ、オートバイ事故で大けがをすること
速子がかつての愛人だった増永に別れを告げるため、大阪に赴く。互いに新しい愛人がいる身で、二人は別れる。東京に戻ると、ゾルゲが赤坂見附でオートバイ事故を起こし、聖路加病院に入院したことを知る。ゾルゲを見舞った速子は、ゾルゲへの愛を自らに誓う。
犬丸、対蒋秘密工作の情報を聞き、大いに立腹すること
阿部大使の随員として南京にいた犬丸賢が8月下旬に一旦帰国するが、近衛が蒋介石と和平直接交渉を検討しているという噂を耳にする。そのため、汪兆銘政権との日華基本条約の締結交渉は中断すべきと言う意見が政権内にできているという。汪兆銘らとの命がけの交渉に報いようとしない近衛の姿勢に対し、犬丸は怒りを隠せない。
尾崎、犬丸より日華基本条約案を密に借り受けること
南京で汪兆銘らと交渉にあたっていたメンバーは、近衛の対蒋交渉の話を聞いて、激昂し、山王ホテルで連日、協議を重ねる。対蒋交渉の相手側は、宗子文の弟の宗子良である。犬丸は日華基本条約の案を尾崎に貸す。尾崎はその条約案を褒め、近衛の交渉相手である宗子良がニセモノらしいという情報を犬丸に提供する。
日華基本条約https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8F%AF%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E6%9D%A1%E7%B4%84
尾崎、娘にダヌンチオの詩を口ずさんできかせること
吉田海相、一陸軍将校につきまとわれて病気となること
三国同盟の話は、第二次近衛内閣発足後も遅々と進まなかった。天皇と枢密院は反対していたし、海軍は沈黙を守った。吉田善吾海相は自宅に、全く面識のない鈴木陸軍大尉の訪問を受ける。鈴木大尉は吉田海相に三国同意への同意を強く求め、同意をするまで離れない、とぴったり後をつけてくるのであった。その結果、吉田海相は狭心症となり海相を辞する。
吉田善吾

東條、四相会議で日本の主要目標が対米戦であること発言すること
吉田の後継として及川古四郎中将を海相に迎え、四省会議が開かれる。そこで三国同盟締結への基本方針が決定される。会議の席上、松岡外相はアメリカを牽制しつつ、ソ連をも同盟に巻き込むべきだ、という長口上を延々とまくしたて、近衛を呆れさせるが、東條はこれに噛みつく。対米戦争に関しては、三国同盟にかかわらず、自主的に決定する権利を持つべきだ、と。東条は日華事変終息後の対米戦争を本気で考えていた。
有馬伯、荻外荘を出て立小便をしているところを新聞記者にみつかること
三国同盟の方針も定まり、近衛は悪化する痔の療養もかねて、妾のお駒(山本ヌイ)と娘の綾子(斐子)を連れて箱根にでも行きたいと考えている。近くに住む有馬頼寧が近衛を荻外荘訪ね、新党につき意見を交わす。
有馬頼寧

松岡、スターマー特使と秘密会談をなすこと
三国同盟の締結に向けて、ドイツからスターマー特使が秘密裏に来日し、松岡外相と協議を始める。ドイツは日本の軍事的援助を求めず、日本の負担は増えない、ドイツは日ソの関係強化への協力を惜しまない、三国同盟により日本は米国を牽制できる、と、その利点を強調、スターマーは熱弁を振るう。松岡もヒートアップし、二人は同盟の草案作りに没頭する。草案は枢密院会議では却下されたものの、すぐさま大本営連絡会議にあげられ、当初反対していた海軍も、国論の分裂と混乱をおそれ、草案をのむ決定をする。
スターマー

大本営連絡会議
園公、三国同盟の成立を知って、天皇の周囲に人がいなくなったと慨嘆すること
石井菊次郎をはじめとして、枢密院には親英米派の重鎮が多数いたが、そもそも天皇が三国同盟に反対だった。天皇の補弼役として、西園寺公望の直系を自任していた近衛と木戸は動く。対米関係悪化を懸念する天皇は、近衛と松岡にその懸念を強く表明するが、近衛は三国同盟こそが米国との平和維持のために必要、と言う奇論を展開し、ルーズベルトに直接会って説得する、とまで天皇に訴える。西園寺の考えを知りたいという天皇の要望を、もはや三国同盟は不可避と判断していた木戸は、老公の病気を理由に握りつぶしてしまう。松岡は、枢密院会議で7時間の長口舌で反対論を封じ、参加していた老人たちは根負けする。アメリカを刺激せぬ、という条件付きで三国同盟案は枢密院本会議で承認される。
ドイツ大使の来栖三郎は、三国同盟からは全く蚊帳の外に置かれていたが、ヒトラー総統官邸で同盟の調印式に臨むハメになる。元来、三国同盟に反対していた来栖だが、同盟が成立した以上は、アジアでの日本の特殊権益をドイツに認めさせようと考える。
三国同盟を知った西園寺は、天皇の周囲に人がいなくなったと嘆いたことが近衛に伝わり、近衛は不機嫌になる。
尾崎、外務省で東園寺一郎より情報を得ること
外務省嘱託の東園寺と彼を職場に訊ねた尾崎の会話。破天荒な大使の異動を含む松岡人事に関する意見交換。来栖ドイツ大使が辞表を提出したため松岡は大島を再びドイツ大使にすること、同盟編集局長の松山重吉(松本重治)に駐米大使を辞去されたこと、建川中将がソ連大使となることなど。松岡新体制のもと、軍人外交が勢いを増す。中ソ不可侵条約が締結されたことも、日華事変が日ソ戦に発展しかねないことを尾崎は懸念する。松岡のソ連訪問を尾崎は期待する。
建川美次

近衛公、三国同盟に対する海軍の胎を知って愕然とすること
レストラン・アジアでの犬丸と尾崎の会話。犬丸によれば、すっかり梯子を外された阿部大使と汪兆銘はくさっている、日本政府は赤ん坊を産みっぱなしにして、栄養も与えない、と。周仏海は日本が借款に応じなければ、アメリカから借りる、脅しをかけてきている。及川古四郎が海相になって、前任者吉田とは打って変わって三国同盟に同意してきたことに近衛は驚いていた。近衛が豊田海軍次官をただしたところ、不穏な国内政治状況を判断して、海軍は同盟に賛成することにした、とのこと。それは政治家の仕事で軍人の出る幕ではない、と近衛は愕然となったが後の祭り。近衛は再び三国同盟にネガティブとなる。
尾崎、レストラン・リッツでゾルゲと情報交換をなすこと
三国同盟締結後、日本と英米の関係は緊張が一気に高まる。双方でスパイの検挙合戦が行われ、東京では英国人記者の自殺事件も発生した。
コックス事件
海軍の三国同盟支持の理由の真相を知った近衛は、アメリカとの関係修復に動き出す。尾崎は小林使節の派遣は仏印での軍事行動の予兆であり、アメリカと日本の軍事衝突は避けられない、という見通しをゾルゲに伝える。
小林使節

近衛公、天皇の前でいけぞんざいであること
秋日和の11月10日、紀元2600年式典が宮城で行われる。
近衛首相は天皇陛下の前で、全くの自然体で寿詞を読み上げる。
近衛は天皇より先に着席するなど、物に拘泥しない淡々とした性格からの無造作な態度は、天皇に対しても同じであった。
近衛の天皇に対する親近感は、天皇中心の強い倫理観によって支えられていた。大政翼賛会の綱領決定でも、臣道実践を主張し、陸軍の望む、親軍党という性格を阻止したのだった。
晴天の下、式典は二日間行われた。
某新聞記者、おトキを四ツ谷駅まで車で送り、色々聞き出そうとすること
奉祝会で出された宮中料理を持ち帰る近衛家女中のおトキを四ッ谷駅まで社有車で送る途中、新聞記者はおトキから近衛の日常の動向を探ろうとする。おトキのガードも固く、満足できる情報は引き出せなかった。中国戦線を視察していた杉山参謀長が帰国したので、何か中国問題に進展があったはず、と記者は睨んでいたが、収穫なし。
近衛公、赤阪の待合篠井で新体制の難航を尾崎にはなすこと
2日間の皇紀2600年の行事を終えて、近衛は赤坂の待合で東園寺、牛端、尾崎と息抜きの宴会をする。新体制といっても政治家たちが単なる政党屋で意識が低い、と現状を憂う。近衛はその晩、見初めた若くてほっそりとした芸者と早速同衾する。東園寺らは近衛の絶倫ぶりに改めて驚く。
尾崎、満鉄ビルから提灯行列の火の海を見て、日本の終末を感ずること
鞄を取りに満鉄ビル内の自室に戻った尾崎が窓の外を見やると、紀元2600年奉祝歌が盛り上がり、街路は提灯行列に埋め尽くされている。否応なしに戦争に向かっている日本の運命とはお構いなしに、群衆は祝典気分に酔いしれている。細君と娘に土産を買って自宅に戻ると、同志の宮城与徳が尾崎を待っており、満州での鉄道建設計画の情報を齎す。
国民歌 紀元2600年
宮城与徳
近衛公、園公危篤の報を聞いて、静かに涙すること
箱根の旅館で、お駒と娘の綾子と束の間の休日を楽しんでいた近衛の下へ、興津の西園寺が危篤との情報が、秘書の牛端から伝えられる。西園寺が若い近衛をヴェルサイユの講和会議の随員に加えたことから、二人の打ち解けた特別な関係が始まったが、我儘なまで積極的だった西園寺に比して、近衛は物事の裏が見えてしまうと、行動を持続させることが嫌になってしまうのだった。最晩年の西園寺に、少し距離を置いたことを、危篤の報に接して近衛は悔やむのであった。近衛は西園寺の国葬の葬儀委員長を務める。
近衛首相、大政翼賛会の憲法違反問題で窮地に陥ること
12月24日に召集された第76議会では、川崎克代議士が、翼賛運動が、議会を素通りして上意下達の政治性を持つことは憲法違反である、との論を展開し、近衛は答弁に窮する。平沼騏一郎らの助けを借りて、その場を何とか切り抜けるが、近衛は病気と称して2週間寝込む。
川﨑克

松岡外相、近衛公に枢軸国訪問を申し入れること
病気に対して近衛は極端に神経質で、体温を常に気にしており、過去2回も肋膜を患った経験から、体温が1度でも上がると寝込むのであった。近衛とは対照的なのが松岡で、肺病持ちで熱が常時37度から38度あるにも関わらず、ウィスキーをあおって喋りまくっていた。松岡は近衛を見舞いに荻外荘に訪れ、ドイツへ行かせてくれと頼む。ヒトラーやムッソリーニ、それに加えてスターリンともヤアヤアとやりたいらしい。
松岡外相の訪欧、世界中の注目を浴びること
東園寺は松岡訪欧の随員に加えられた。西園寺がかつてヴェルサイユ講和会議の際に若き日の松岡を随員に加えたことへの恩返しだろうか。東園寺が見たところ、松岡の訪欧は特別な目的が無く、カウンターパートの各国首脳と面識を持つことが目的のようだ。モスクワへ立ち寄るのは中立条約への感触を探ることではないか。松岡訪欧団の一行は、昭和16年3月12日に東京駅を出発する。
近衛が松岡を見送ることはなかった。
松岡使節、関東軍の一将校から注意されること
ソ連国境の満州里に行くまで、かつて自分が総裁であった満鉄の面々と会うごとに大歓迎の宴が催され、松岡は上機嫌で大いに喋りまくる。その弁舌は終わる所が無かった。列車の中でも松岡の弁が止まることは無かったが、満州里に近づいたところで、関東軍の中佐が松岡に歩み寄り、注意を促す。満州里からのソ連が仕向けた列車には盗聴器が仕掛けられており、録音されている、時計やラジオに気をつけろ、と。一行は、満州里で、モロトフ外相差し回しの特別列車、「赤い矢」号に乗り込み、モスクワに向かった。
松岡、車中で早くも対クレムリン外交をなすこと
特別列車、「赤い矢」号で振舞われる食事と酒は上等で十二分な量だった。日華事変以降、日本では外国産の食料品も欠乏しがちだっただけに、一行はシベリア鉄道の旅の退屈さを飲食で紛らわす。松岡は時計の前で、盗聴を意識しながら、シベリア出兵が失敗だったことを滔滔と述べ、本質が東洋人であるスラブ民族と日本人が争う理由はない、と捲し立てる。松岡流の、ソ連を三国同盟に引き込むための外交術なのであった。
藤村海軍中佐、三人の給仕男の中に日本語を解する者がいること感づくこと
長い道中、随行員たちは松岡の長口上に付き合いきれなくなる。松岡は自分と近衛を引き離そうとしている勢力が国内の親英米派の中にいることに気づいており、近衛の意向を常に把握する意味でも、同じ貴族である東温寺との関係には気を使った。松岡は豪放磊落に見えて、用意周到な一面を持っていた。そのうち、藤村海軍中佐が日本語を解する給仕がいることに気づく。
藤村義一

松岡、スターリン会見、日ソ不可侵条約を提案すること
3月23日の午後3時半、一行はモスクワ駅に到着。建川駐ソ大使、ロゾフスキー外務次官以下、ソ連外務省の高官、枢軸国大公使の出迎えを受ける。連盟脱退の道中に訪れた9年前に比べて、モスクワの発展に松岡は驚く。
翌日、モロトフ首相兼外相と首相官邸で面会、松岡は三国同盟における日本の立場と日ソの友好を強調、日ソ不可侵条約の腹案を披露する。モロトフは松岡の話半ばで、スターリンに会いたいか、と松岡に訊ね、直通電話を使って、スターリンをその場に呼ぶ。
やがて現れたスターリンに、日本は道義的共産主義者であり、アングロサクソンとの対立は避けられない、と松岡は持論を述べる。スターリンは松岡の日ソ不可侵条約の腹案に対し、好意的な態度を示したため、帰途に再び話しを聞くことを約して、松岡はクレムリンを後にする。スターリンとの会談は30分であった。
ドイツ側の歓迎の鮮やかなこと、しかし料理の貧弱でまずいこと
松岡がモスクワで、アメリカのスタインハート中ソ大使と秘密会談を行ったことが、外国新聞記者によってバレ、ちょっとした騒動になるが、旧知の友人に会っただけと松岡は煙に巻く。スターリンは滅多に外交使節には面会しないため、松岡との直接会見は、世界、とりわけ反枢軸国側が大きく注目することになった。
一行はソ連との国境のマルキナでドイツの列車に乗り換える。青い制服を着た接待係であるドイツ軍人達の統率の取れた動きは鮮やかであったものの、特別列車内に運ばれた料理や酒があまりに貧弱であることに一行は驚く。手を付けるのが躊躇われるほどの貧弱さで、味も不味い事甚だしい。ドイツの物資不足は深刻なのだと一行は感じた。特別列車はベルリンに向けてひた走る。
リッペンドロップ外相、松岡に対ソ関係の悪化を密に伝えること
列車が停車するどの駅でも、一行は大歓迎を受ける。青い制服の軍楽隊が君が代を演奏し、親衛隊や青シャツ隊が、「ハイル松岡」と右手を挙げて斉唱する。田舎者で愚鈍で無統制なソ連国民とは大違いだ。3月26日にベルリン駅に到着すると、一行は、大掛かりな歓迎に度肝を抜かれる。
大仕掛けの歓迎ぶりは、ヒトラーが西部戦線から凱旋した時と同じ規模であった。しかし同日、枢軸側に入ったばかりのユーゴスラビアで反独革命が起っているとの情報が日本大使館から齎される。会見したリッペンドロップはバルカン半島情勢には、楽観的な見通しを述べるが、ソ連問題となると、バルカン半島利権で対立する現状を認め、ソ連は英国と通じており、「非友好的」とまで言う。話を聞く松岡は、日本にとって遠い山火事であるバルカンの独ソ間の対立などに拘泥せず、極東でソ連と手を握るべき、と考えていた。
松岡、ヒトラーに日本の政情を打ち明け、時が来れば日本の指導者になると豪語すること
総統官邸で、松岡はヒトラーと会見する。ヒトラーの顔を見て、松岡は哲学者、または芸術家の様に感じた。ヒトラーはアメリカ頼りのイギリスの窮状と日独の利益が相反しない、と三国同盟の利点を強調すると同時に、ソ連に対して十分な警戒をしており、必要な場合は断固たる措置を取る、と独ソ戦の可能性をほのめかす。松岡は国内に対立する意見があることは認めつつ、自らが信ずるアジア政策が有力になりつつあるとし、シンガポールの早期占領の必要性まで口にした。そして、日本で支配的な地位にある人を自分の考えに近づけ、やがては自分が日本で支配権を握る、と。
二人がバルコニーに現れると、下の大観衆は歓呼の声をあげた。
松岡、リッペンドロップに対英攻撃を打ち明け、対ソ策について腹を探りあうこと
ベルリンでの会談は2日間に及んだが、同じ内容の繰り返しであった。ドイツ側は日本の対英攻撃を求め、それにより米国との紛争を回避することを提案した。しかしながら、松岡はシンガポール攻略を超える対英攻撃については、一切の言質をドイツ側に与えなかった。リッペンドロップはソ連の話になると表情が曇り、日本とソ連の協定は、形式的、表面的であるべきと主張する。松岡は仏ヴィシー政権への訪問も示唆するが、リッペンドロップはそれに不信感を持つ。
松岡、ローマ法王を啓蒙したと威張ること
ベルリンの後、一行はローマに向かい、そこで5日間をすごす。その後ベルリンに再び立ち寄り、ヒトラー、リッペドロップと再度会談を行い、4月5日に、復路モスクワへ向かった。松岡以外は、ローマで買い物や夜遊びで息抜きをする。松岡とムッソリーニの会見は儀礼的なもので、外交の側面は無かった。
松岡は東園寺とともに、バチカンを訪問し、ローマ法王のピオ12世と会見する。そこでも松岡の世界観を滔々と述べた後、三国同盟の意義を説き、欧州戦争も日中戦争もアングロサクソンによって長引かされている、英米は共産主義を背後から支持している、と糾弾する。松岡はピオ12世を啓蒙してやった、と意気揚々とモスクワへ向かうのであった。
ピオ12世

松岡、独軍のユーゴ進撃の報をきいて泰然自若たること
一行は、再び「赤い矢」号に乗って、モスクワに向かう。その道中、独軍がユーゴスラビアに向かって進撃を開始したというニュースが伝えられる。反枢軸革命を起こしたユーゴスラビアの新政府はソ連と手を結び、ソ・ユ不可侵条約の提案にまで進んだ。これでドイツとソ連の関係は大きく後退することになった。松岡はそのうちに何とかまとまるだろう、と楽観視している。
松岡、日ソ交渉が暗礁に乗り上げ、気を腐らせてレニングラードに観劇に行くこと
一行はモスクワへ4月7日に到着、同日午後4時からモロトフとの会談を行う。松岡は往路のスターリンの態度から、日ソ不可侵条約はすんなり締結可能と踏んでいたが、以外にもモロトフは、日本が北樺太の油田利権を放棄した上での中立条約の締結という提案をしてきた。この意外な高いハードルに松岡は当惑し、三時間半の会見は物別れに終わる。翌々日の再交渉で松岡は不可侵条約を諦め、中立条約を提案するが、モロトフは北樺太油田利権を再び持ち出し、妥協の姿勢を見せず、またもや決裂。それでもソ連側の歓待は続き、山のような美酒、美食が提供される晩餐会が催され、一行はドイツとの違いに改めて驚く。散会後、松岡の提案で一行はレニングラードへ向かい、世界一と言われるバレエを鑑賞する。
松岡、スターリン書記長に直接書面を書き送ること
独軍がユーゴスラビアに進撃し、首都を制圧したというニュースが伝わる。ソ・ユ不可侵条約を結んだばかりのソ連ではこのニュースは重苦しく伝えられた。レニングラードから戻った松岡は、夕方から三度目のモロトフとの交渉に臨むが、渋面で引き揚げてくる。東京から伝わる内閣改造のニュースと「三国同盟は世界平和のため、アメリカの参戦防止が目的」と繰り返す近衛に対し、なりふり構わぬナチス・ドイツの素早い動きを目の当たりにした松岡は、旧態依然たる生ぬるさを感じ、苛立つ。「近衛公ではもうだめだ、一日も早く帰国して、俺がやらないと!」。
モロトフでは埒が明かないと判断した松岡は、スターリンに親書をしたため、日ソ中立条約締結を訴える。翌日、スターリンからの招きで再協議となるが、北樺太油田問題がまたしても持ち出される。それに対する、松岡の猛反論に対してスターリンは妥協を決意、中立条約についに同意する。
松岡、芸術座で英首相チャーチルの密書を受け取ること
松岡とスターリンとの間に交わされた、日ソ中立条約締結の合意は一行の中でも伏せられ、何も知らぬ内外の報道陣は交渉の決裂を全世界に伝える。条約調印が予定された前日の土曜、モスクワの芸術座に各国の外交団が招待され、松岡らの一行もその中にいた。英国のクリップス大使が劇場のトイレで松岡に偶然を装ってチャーチルからの書簡を手交するが、誰にも気づかれない。これは、周到に計画されたもので、三国同盟に加わった日本の利益を問う内容であったが、英独戦について英国側の見方も知っておきたいという松岡の希望に合致する機会ともなった。宿舎に戻った松岡は、翌日の条約締結を一同の前で発表し、皆を驚かせる。そして、これが外交だ、とうそぶくのであった。
スターリン、調印式後、松岡使節一行を歓待これつとめること
翌日の条約調印式で、スターリンは嬉しさを隠せない。独ソ戦の開始はほぼ間違いなく、その際に、日独からの挟み撃ちは、この条約で避けることができるのである。調印後の宴会では、スターリンは上機嫌この上なく、誰彼なしに握手をした。日本は、この日ソ中立条約を過大に評価しており、やがて対米戦争に突入するが長期戦で力尽き、中国も日本に荒らされた状態で放置される、そしてアジアが赤化されていく – スターリンはそのように見通し、上機嫌だったのだ。スターリンは松岡の盃に何杯も酒を注ぎ、松岡はそれを干す。列車の発車時刻が近づき、酩酊した松岡らが辞去しようとすると、スターリンは電話一本で、一般乗客もいる国際列車を1時間遅らせてしまう。さすがは独裁者だと一同から驚きの喚声が上がった。
スターリン、松岡を駅頭に見送り、外国使節を驚倒させること
一行は日本大使館に向かい、ここでも最後のレセプションが予定されていた。ろれつが回らなくなっていた松岡だが、駆け引きなしで、相手に対して誠実一本の皇道外交の勝利だ、と宣言する。午後5時に、日ソ中立条約の公表がなされ、ラジオのアナウンサーはロシア語の後、たどたどしい日本語で松岡らモスクワの日本人のために放送を行い、一行を感激させる。
その後、一行は駅へと急ぐが、1時間も待たされた一般乗客は到着した松岡らの姿を見て、遅れの事情に納得する。見送りの枢軸国外交団らと別れの握手を交わす松岡らのもとに、突然スターリンが現れる。滅多に人前に姿を現さない独裁者が、駅頭まで松岡を見送りに来て抱擁を交わすという、異例の予期せぬ事態を各国外交団はただ驚愕して見守った。
見送りに来たドイツのシューレンブルク大使にも、松岡は声をかけ、独ソの関係が急速に冷却化していることを意識しながら、いかなる場合でも我々はドイツの友人です、と念を押した。松岡とスターリンの抱擁を見せつけられたシューレンブルク大使は、心ここにあらずという表情で、翌日、報告のためにベルリンに飛行機で飛んで帰るのだった。
近衛、松岡外相の帰朝を一刻も早く促すため電報を打つこと
松岡らを乗せたシベリア鉄道が大陸をひた走っている間、東京では米国野村大使から送られてきた日米諒解案をめぐって、検討が行われていた。日米双方の民間人が中心となって検討されてきた経緯があり、米国政府の仲介による日華事変終息に向けての解決策が、正式な日米外交ルートに乗る可能性が出てきたのだ。松岡の出張中、外相代理であった近衛は、うるさい松岡がいない間に、この諒解案を進めてしまおう、と考えていた。
アメリカの第一試案が東京に届いた4月8日、松岡はモスクワで旧知のスタインハート米国大使と会見を行っており、自分がルーズベルトに会いに行く、と大風呂敷を広げていたところだった。
野村大使から送られてきた諒解案には、中国の非賠償、満州国の承認などと並んで、日本軍の中国からの撤退が条件として含まれており、これが大きな障壁かと思われたが、陸海軍とも一応、これらの条件を受け入れることに、政府統帥部連絡会議の席で同意した。しかしながら、外務次官の大橋忠一は、松岡の承認なしで、野村大使に条件受諾の電報を打つことに反対し、野村への返事は先延ばしされることとなった。
決断力に欠ける大橋次官を情けない、と思いつつ、近衛は松岡が一刻も早く帰国するよう、満州里に到着したら、直ちに電話をいれるように、と書記官長に指示した。
日米諒解案
近衛公、松岡の帰朝が遅れるのでいらいらすること
松岡らを乗せたシベリア鉄道は4月20日、深夜の午前三時に満州里に到着するが、駅は内外の記者や日満両国の要人らで満たされ、日ソ中立条約を結んだ英雄である松岡を歓迎するムードで一色だった。松岡は貴賓室からラジオ演説を行い、反枢軸国を意識しながら、例の長口舌を行い、その録音は同日昼の日本のニュースでも流された。
重なる宴会で松岡は盃をあおり続け、喋り続けるが、誰も止めることができない。
首相官邸に直接電話を入れるようにという近衛の訓令は無視され、外相代理から、大連経由で21日に帰国するという、そっけない返事が来ただけだった。気分を害した近衛は、直接大連に電話をかけることにした。
松岡、人造石油の話で満鉄の人々を煙に巻くこと
満鉄総裁公館では、大村総裁以下、かつての多数の部下たちに囲まれた大宴会が催され、松岡は上機嫌この上ない。大村総裁とともに公館バルコニーに現れた松岡は、満鉄青年隊の大歓声に対して、ヒトラーばりに右手を挙げて答礼する。ドイツで工場を見学してきた人造石油に触れ、ドイツはエンジンの改良によって、人造石油でも戦えるだけの体制を整えている、日本も石油不足を嘆いているだけでなく、ドイツを見習うべき、と早速土産話を披露して、皆を感心させる。そこに、近衛からの電話が入り、日米諒解案への返答が切迫していることを知らされる。翌日に満鉄社員の前で演説会をしようとしていたという松岡に苛立った近衛は、緊急の帰国を松岡に命じ、松岡も従わざるを得なかった。
松岡、悪天候に阻まれて、帰朝を一日のばすこと
翌朝、石炭液化を研究していた満鉄中央研究所の岡部博士が、飛行場で離陸を待つ松岡を訪れる。意外な訪問に喜んだ松岡は、またしても長口上を始め、周囲を苛立たせる。悪天候が改善せず、結局、その日は、飛行不能と判断され、当初案に戻り、結局、松岡は満鉄社員の前で演説を行うことになる。口から出まかせの松岡の長い話は際限なく続く。
近衛公、松岡の宮城遥拝を避けて、ただ一人先に帰ること
大連を飛行機で発った松岡は、4月22日の午後3時半に立川空港に着陸した。日章旗を持った小中学生が駆り出され、空港の内外に人垣がつくられた。帰りの車中で松岡と話すのが手っ取り早いと考えた近衛は、富田書記官長と二人で立川空港にむかう。元気そうに飛行機から降り立った松岡は、モスクワを発って以来、何度も行った、「第一声」のスピーチにもはや飽きていたので、帰朝第一声のスピーチはあっさりと済ませ、帰途に着こうとするが、首相官邸に赴く前に、宮城遥拝をするのだと言い張り、近衛を呆れさせる。明らかに報道陣のカメラを意識したスタンドプレーであり、近衛はその発想に虫唾が走った。近衛は、自分は宮城遥拝などしない、と吐き捨て、大橋次官に、日米諒解案については、車中で松岡に話すように指示し、自分はさっさと一人で車に乗って帰ってしまった。富田は、松岡も松岡なら、首相も首相だ、と不安な気持ちに襲われた。
宮城遥拝
松岡、日米交渉が近衛の筋でなされていることを知り、激怒すること
宮城遥拝に向かう車中、松岡は大橋次官から日米諒解案につき説明を受け、それがモスクワでラインハート米大使に話していた内容と全く違う内容であることを知り、激怒する。そもそも民間人が持ち込んだ案であることが気に食わず、中国からの日本軍の撤退、南進案の放棄、米国欧州戦争参戦時での日本軍の不参加など、重要な内容を外相の自分抜きで、進めていたのが我慢できなかった。しかも陸海軍まで同意しているとは。近衛は国際情勢、外国との交渉を何一つ知らぬ馬鹿者だ、と松岡は近衛を見下す。首相官邸に向かうはずだった松岡は外相官邸にむかい、外務省職員から喝采を浴び、外務省内の宴会は大いに盛り上がるが、首相官邸では、近衛をはじめとする閣僚が料理に手も付けられず、待たされていた。酔って首相官邸に現れた松岡を迎える公式歓迎会は、白けたものになった。同日夜、首相官邸で政府統帥部連絡会議が開かれ、近衛が日米諒解案に対するオーケー・プリンシプルを議題にあげる前に、松岡は1時間も長口舌の帰朝報告を始め、参加者を呆れさせる。近衛の提出した議題に色をなして松岡は反論し、石井ランシング協定の失敗は繰り返せぬ、と弁舌を振るう。その挙句、このような重要案件の検討には2週間必要だ、と言い残し、一人で勝手に退出してしまう。
近衛公、松岡の反対に遭って気を腐らせ、「病気」になること
翌朝、近衛は昨晩の松岡の不遜な言動を思い出し、不快なこと極まりない。欧州出張で、ヒトラー、スターリンらの要人と会談を重ねたことで、松岡は狂犬のように獰猛になって帰朝した。以前は少なくとも近衛に対しては恭順であった松岡だったが、飼い犬に手を嚙まれたようだ。富田書記官長の報告によれば、陸海軍とも松岡の昨晩の不遜な言動に対しては、気違いだ、とさえ言って怒っている。近衛はその晩、松岡を荻外荘によびつけ、私的な会合と言う形で説得に努める。日華事変から四か年を経て国力を消耗している我が国には、南進する余裕などなく、この際アメリカと手をにぎるべきだ、三国同盟上のドイツに対する信義の上からは、日米が協力して英独間の仲介をする、という形にすればよい、と近衛は説く。近衛の話を聞く松岡は落ち着きをやや取り戻し、昨晩の非礼を詫びつつも、依然として釈然としない表情を見せ、検討には時間が必要だ、と繰り返す。結局、松岡との話し合いは物別れに終わり、翌日から近衛は病気だと言って、ふて寝を決め込む。
尾崎、独ソ戦必至の見通しについてゾルゲと情報を交換し合うこと
独ソ間の緊張を背景に突如結ばれた日ソ不可侵条約と立役者であるはずの松岡の奇妙な孤立、そして軍部の不気味な沈黙は尾崎にとって不思議であった。気に食わぬことがあれば、いつでも騒ぎ立てる陸軍が今回は沈黙していることから判断して、尾崎は陸軍の方針はあくまで南進であり、今年中の対ソ攻撃はない、とゾルゲに報告する。
尾崎は独ソ戦の可能性に関する外務省の分析について、東園寺を通じて探りを入れるが、独軍はユーゴ進撃で無理をしたため、補給路が伸びてしまい、対英作戦に支障が出ているため、バルカンから手を引く、という見方もあるという。
しかしながら、食料と燃料資源の確保のために独軍がソ連に攻め込む可能性は高いのではないか、と尾崎はゾルゲに告げ、ゾルゲも同意する。
実のとこと、ドイツ大使館に勤務していたゾルゲは、独ソ戦間近、という情報に既に接していたのであった。
松岡、武力南進せぬという日本の確言を削除すること
松岡が日米交渉の案を握りつぶし、病気と称して会議にも出ないことは、新聞記者すら知るところになった。しかし、ついに松岡は5月3日の連絡会議に出席し、大幅な修正案を提出し、修正案が会議の承認を得る。その内容とは、「欧州戦争に関する両国の態度」に日米両国の英独への調停、を加え、日本の南進不実行の確言を削除し、日米会談の取り決め削除する(原案は近衛が代表参加であった)ことだった。さらに、日米中立条約の可能性を探れ、と唐突に野村大使に指示をだすが、米国からは全く相手にされない。また並行して、同じ日に、オーラルステートメントの形をとった米国への警告文書を出し、これは野村大使が提出を躊躇するような不遜な内容であった。これはハル国務長官の感情をひどく刺激した。
松岡のやり方は、在米の駐在武官の悪評を買い、勝手にドイツ側にも案を知らせた為、ベルリン駐在武官からも「勝手に米国と交渉するな」という横槍が入る。しまいには、事態の紛糾に気を腐らせた松岡は天皇に拝謁し、鬱憤をぶちまける。独ソ戦開始の場合は、中立条約を捨てて、独伊側に立ち、イルクーツクまで進撃すべし、と。天皇は中立条約を結んだ松岡本人の口からソ連を撃つ話を聞かされ、驚愕する。松岡の話は飛躍的すぎる、外相を変えたらどうか、と天皇は近衛と木戸内府に仰せられる。
尾崎は朝飯会で入手した一連の動きを逐一ゾルゲに報告し、ゾルゲは大満足であった。
松岡、荻外荘に近衛公を訪問し、野村大使の「越権」を難詰すること
4月18日に米国諒解案が届けられてから2か月、松岡一人によって事態の進展は止められた。この期間、松岡は勝手な大修整を加えた試案を送って、ハルの疑心暗鬼を深めさせたりした。とりわけ5月13日に示した松岡案では、米国が欧州戦争に参加しないこと、米国は蒋介石に対して日本との和平交渉を勧告すること、の2点に同意すれば交渉のテーブルに着く、という高飛車な態度を示した。ハルは松岡が南進しない保証の項を削除したことを問題視し、日本との交渉に慎重な態度を示し始めた。
松岡は対米回答の前に、ドイツの賛同を取り付けるべく、回答を待っていたが、来なかったため、しびれを切らして米側へ回答するが、行き違いでドイツの回答が届く。ドイツ側は日本が第三国と結ぶ条約は、三国同盟を弱体化するものだ、として、ドイツは日米交渉の推進に反対の立場を示す。近衛をはじめとする政府首脳はドイツの不満に対し、頬かむりをする腹だったが、一人松岡がドイツへの信義に固執し、政府首脳と対立した。あまりの独善ぶりに、松岡が訪欧中に密約をドイツで結んで来たのではないか、という疑念を皆に起こさせた。さらに松岡は野村大使が勝手に提案をハルに行っている、越権行為だと罵倒するので、近衛はホトホト呆れ、松岡を相手にするのが面倒になり、黙り込む。
松岡、汪主席と歌舞伎座で観劇中独ソ開戦の報を聞き、少しも動ぜぬこと
6月22日の日曜日のこと。松岡は自分が閣内で孤立していることに気づき始め、週末は御殿場の別荘に逃げてしまうことが多くなったが、その日は来日中の汪精衛を自ら接待することを買って出た。
汪精衛は日米諒解案に基づく日米間の協議に不信感を持っていた。蒋介石と日本政府に和解が成立すれば、汪精衛の影響力低下は不可避であり、近衛声明に応じて生命をかけた重慶脱出劇も茶番になってしまう。日華平等の原則を立てながら、汪に一言の挨拶もなく、蒋介石との和平斡旋をアメリカ政府に依頼する近衛とに日本軍部のやり方は許せない、と。
松岡は汪精衛の腹を見透かしており、挽回のチャンスを狙っていた。
歌舞伎座で修善寺物語を松岡と汪が観劇中、独ソ戦開始のメモが松岡に入る。松岡はさして驚かないが、メモを見せられた汪は顔色を変える。独ソ開戦の報が、舞台終了後の歌舞伎座にも伝わり、その場は騒然となる。日本は日ソ中立条約に沿って中立を決め込むのか、それともソ連を撃つのか。
ドイツ軍の奇襲(ソ連政府の発表)
対ソならびに対英米開戦論を言上して天皇を驚愕させること
観劇から戻った松岡は天皇に拝謁し、三国同盟は日ソ中立条約に優先するので、直ちにソ連を撃つべし、そして米英との戦闘も不可避である、という持論を述べる。天皇は松岡の考えを知り驚愕、近衛と直ちに協議することを下命する。
その後、日曜の夜に省舎に集まった外務省幹部に対し、上奏の内容を述べた松岡は、皆の意見を聞くが、重苦しい沈黙が流れる。松岡の論理は支離滅裂だった。ソ連と戦うことがなぜ米英との戦争になるのか。自分で結んできた中立条約をあっさり破棄すると陛下に上奏してしまったのは、あまりに軽率ではなかったか。
松岡は、陸軍がいつかはソ連を撃つと勝手に思い込んで中立条約を結んだ、怪しからん奴だ、と陸軍の一部、右翼団体から攻撃されており、それが松岡の閣内での孤立の一因になっていた。そこで、独ソ戦を理由に、ソ連を撃つことを主張し、自らの政治的な地位を挽回しようとしているのか?
尾崎、東園寺から御前会議の様子を巧みに聞き出すこと
独ソ開戦は日本の立場を大きく揺さぶる。世界中の関心は日本の動向に集まった。巷では流言がとびかう。政府統帥部連絡会議は空転を続ける。
朝飯会は活況が続く。皆、各所から情報を持ち寄り、独ソ戦の見通しや日本の採るべき道について議論をたたかわせる。独ソ戦の見通しについては、ドイツが短期間に勝利を収めるという見方、ソ連が長期戦に持ち込んで持ちこたえるという見方に割れる。北樺太やシベリアの利権獲得をめぐって、日本はどうすべきかと言う点でも意見が分かれる。しかし、ドイツ側の都合の良い情報に影響されていたのは明らかで、ドイツ優勢を疑うものは尾崎ら少数派であった。
藤村海軍中佐から情報を入手した東園寺が尾崎の事務所を訪問し、7月2日の御前会議の結果を伝える。藤村の考えでは、南方の対日包囲網に対抗すべく、日本は泰と仏印に固い協力関係を築くべきであり、ソ連とは当面、事を構えない、独ソ戦でソ連が疲弊するのを待つ熟柿主義を取るべきだ、と。
御前会議では、藤村の期待どおり、ソ連攻撃は見送りとなった。また、日米交渉が膠着しており、松岡が米国政府の信頼を失っていることを東園寺は尾崎に伝える。
尾崎、北方危険を予測して、動員兵力の配置をつぶさに調べること
尾崎は兵力の動員数について調査を進める。蚊帳、冷蔵庫を軍が大量に買い付けたという噂もあり、相当な兵力が南方に振り向けられているのは間違いないようだが、満鉄からは関東軍部隊北上と関東軍から満鉄への人員要求の情報が齎される。さらに、軍務課長の佐藤了賢が、昭和研究会の昼食会での席上、ソ連が独ソ戦で疲弊した場合、シベリアは据え膳であり、それを食わない手はない、と発言した情報が伝わる。
情報を総合した結果、関東軍兵力がシベリアのソ連赤軍の3倍となり、シベリア軍に内政的崩壊が始まれば、日本軍は対ソ軍事行動に出る、という結論を尾崎は導き出す。
独ソ戦勃発以降、憲兵の監視が一層厳しくなり、尾崎とゾルゲの情報交換は、もっぱら鳥居坂のゾルゲ宅で緊迫した雰囲気のもと行われることになった。そんな中でもゾルゲの日本人女性との情事は続き、尾崎は足早にゾルゲ宅を辞去するのであった。
松岡、近衛公の書簡に感動して、夜中、荻外荘に電話をかけること
松岡に対して不信感の塊となっている米国は、日本がソ連を攻撃しないという確証を、直接近衛から取りたいと、日本大使のグルーが近衛に接近してくる。しかしながら、前例や伝統、それに付随する政治的な人間関係がどれほど面倒であるかを近衛は熟知しており、松岡経由で米国に返答することで、グルーを失望させる。松岡は明らかに日米交渉に冷淡になっており、グルーに対しても不機嫌な応対をする。
ソ連への対応が決まった以上、日米交渉を進めるべきと考える近衛は、日米交渉にへそを曲げた松岡外相の協力を仰ぐべく、自らの考えを書面にして、松岡に送る。日米交渉の進展の重要性を切々と説く近衛の書面に接し、松岡は「非常に感激した」、と夜半、近衛に電話をかける。翌日、松岡は、首相官邸の近衛に再度電話をかけ、日米交渉に取り組む決意を例の長口上で示すが、自分が日米交渉の障害ならば、辞任しても良い、と近衛に伝える。
東條、松岡に馬鹿呼ばわりされ激昂して詰め寄ること
近衛の書面が功を奏したのか、松岡の態度も和らぎ、日米交渉に向けて、7月10日、12日と政府統帥連絡会議が開かれ、米国から送られた6月21日案をもとに審議が進められることになったが、重大な問題点にひっかかる。それは、欧州戦争への日本の不参加と、中国政府に蒋介石政権と南京政府の違いをつけていない点であった。そして付属声明書の中で、日米の交渉を妨げている者が日本政府指導の中にいる、として松岡を暗に非難していた。松岡はこの指摘に反応し、米国は日本を徹頭徹尾、屈服させようとしている、とし、交渉の卓袱台返しを主張し始める。
近衛は松岡抜きで、陸海内相と協議し、欧州戦争への日本の参戦は条約上の義務と自衛の観点で決定する、中国問題の解決は近衛三原則を基本とし、米国は和平勧告のみ行う、日本の太平洋上の武力行使権は留保する、という条件が満たされれば、米国提案に同意する、という合意を取り付け、12日の連絡会議にのぞむ。
会議の席上、松岡は軍部を腰抜けと罵倒し、東條の激昂をまねくが、及川海相がその場をとりなす。結局、陸海軍で最終案をつくることになるが、病気を理由に松岡は最終案を見ようとせず、時間が浪費される
斎藤良衛顧問のとりなしで、何とか最終案をつくりあげたが、松岡は発信の段階になって、米国の付属声明書を非礼な外交文書として拒否をしてから対案を出すべきと言い張る。交渉決裂をおそれた近衛らは、拒否の訓電と対案を同時に発信することで松岡を説得する。
しかしながら、松岡は拒否の訓電だけ先に発信させ、アメリカに見せていない対案をドイツに極秘に内報させるという暴挙に出た。この松岡の裏切りはすぐに露呈し、近衛はもはや外相を松岡に任せられないと確信する。
近衛公、葉山御用邸に伺候、委細奏上のうえ、鎌倉山の別荘に泊まること
7月15日、病気を理由に閣議を欠席する松岡を抜きにして、閣議後、近衛は陸海内相を呼び、外相問題を話し合う。東条陸相は松岡の更迭を強く主張、さもなければ総辞職と息巻く。近衛は、松岡が、米国の意見書は日本の内閣改造を要求する内容だと各所で言いふらしていたことを気にしており、対外的には総辞職の方が良い、という判断に落ち着く。葉山御用邸に天皇を訪ね、総辞職の意向を伝えると、松岡だけを辞めさせられないかと天皇は下問される。
その後、近衛は木戸内府にも総辞職の意思を伝えるが、再降下がされるだけと木戸は見通しを述べる。近衛自身は既にうんざりしており、平沼に首相の座を譲りたいと考えていた。
その晩、近衛は鎌倉山の別荘に行き、秘書官で女婿の細山と酒を酌み交わす。細山の新妻である温子は、近衛の次女であり、前年7月の第二次内閣発足の1か月後に、温子は病死したのであった。
近衛公、鎌倉山の別邸にて、ひとり感慨にふけること
最近、近衛は松岡に振り回されてばかりだった。しかし、日米交渉では、近衛は松岡に妥協しなかった。軍部の協力もあったが、日本の難局を打ち破るには、米国と握るしかないと思われたのだ。日華事変は明らかに失敗で、打開策として結んだはずの三国同盟も不利益の結果しかない。日ソの仲介人であったはずのドイツが勝手にソ連と戦争をはじめ、オットー大使を通じて、今や日本にソ連を撃てと圧力をかける始末だ。松岡は訪独の際、何か密約をナチスと結んだのか。松岡は言質を取られるようなことはなかった、と言い張っているが。
ちょうど1年前の7月16日、大命降下の喧騒を避けるため軽井沢に隠遁していた自分が、車で東京に向かった日であった。その1年後、内閣総辞職をしようとしていることに近衛は因縁めいたものを感じた。
近衛公、自動車の中で富田書記官長に総辞職の心境をのべること
東京へ戻る車中、近衛は富田書記官長に、再登板の意欲が全くないことを伝えるが、富田は近衛への再降下を信じて疑わない。近衛は、周囲の反対を押し切って松岡を外相に指名した自分の責任を感じていたのである。
その晩6時、臨時閣議が召集され、総辞職に怪訝な思いの大臣もいたが、陸海内相など内閣の中心が賛同している以上、事の決定は早かった。
富田書記官長が辞表を取り付けるべく、一人、千駄ヶ谷の「病気」の松岡の自宅に向かった。
松岡、辞表提出の後、御殿場の山荘にひきこもること
内閣総辞職に関する富田の説明を聞いた松岡は、反対の意見を述べるが、富田は辞職するのかしないのか、と迫る。松岡はしぶしぶ辞職に同意し、8時半に近衛は辞表を取りまとめて葉山御用邸にむかう。11時に官邸に戻った近衛は直ちに閣議を開催、第二次近衛内閣は終了した。
翌7月17日に午後1時から宮中で重臣会議が開かれ、同日午後5時、近衛に再び大命降下がなされた。
中一日置いた19日、第三次近衛内閣の顔ぶれが発表され、外務大臣には、前商工大臣で海軍大将の豊田貞次郎が指名された。豊田は商工大臣として評判がよく、人柄にも定評があり、海軍には言うに及ばず、陸軍にも多少はにらみが効くと思われた。松岡自身はこの政変が自らの追放であることをよく知っており、御殿場の山荘に引きこもってしまう。
豊田、外相就任早々、日米交渉の暗礁にあい、夜もろくろく眠れぬこと
7月19日に発足した第三次近衛内閣は、日米交渉を進めることがその改造内閣の唯一の理由だったにもかかわらず、ワシントンの野村大使には、その意図が全く伝わっていなかった。6月21日の米案に対しては、松岡を非難する内容も付属書類としてあったため、松岡の妨害、握りつぶしなど散々な目に会ったものの、7月15日にワシントンへ返電した。しかし、それに対する米側の回答は一切なかった。
一方、既定路線となっていた南部仏印進駐の時期が迫っており、軍部の動きが目立ち始め、それがアメリカを刺激した。7月21日、 病気療養中のハル長官に代わり、ウェルズ国務次官が若杉公使に対して、日本が南部仏印を占領すれば、今までの会談は無用となる、との警告を発する。23日の野村大使との会談では、「もはや会談の基礎は全く失われた」と、重大申し入れを野村に行った。翌24日の野村・ルーズベルト会談では、日本の南部仏印撤退の条件として、日米英蘭華による仏印中立化の共同保障、仏印からの物資獲得保障を米側は提案する。南部仏印進駐の目的が、そもそも、中国への補給路遮断と日本軍足場の確保だっただけに、米提案は受入れが不可能であった。
7月26日には、日本は南部仏印進駐を正式に発表しなければならない立場となった。これに対し、アメリカは日本の金融資産凍結を直ちに発表し、イギリスも続いた。これらの強硬措置に対し、日本の国内世論は激昂となる。
豊田外相は二晩にわたり米国大使のグルーと秘密会談を行い、日本の南部仏印進駐が平和的な意図であること説得に努める。グルーは豊田の人柄に信頼感を寄せるが、米国の立場を一歩たりとも後退させない。日米関係の現状に豊田は憔悴する。
近衛公、ルーズベルト大統領との直接会談を決意し、陸海両相に打ち明けること
第三次近衛内閣は、南部仏印進駐問題で、立上りから米側より一発ガツンとくらい、がっくり膝を折った状態だった。7月29日以降、連日、連絡会議が開かれるが、陸軍は態度を硬化させていく。8月4日には、日華事変終了後の仏印からの撤退を表明する妥協案を決め、野村大使を通して米側に伝えるが、米の強硬姿勢は変わらず、譲歩姿勢は一切ない。日本側の回答は大統領提案に対して答えていない、ピント外れ、と指摘される始末であった。
近衛は、富田書記官長の勧めもあって、ルーズベルトとの直接会談で日本の立場を主張し、事態の打開を図ることを考え付く。交渉不成立ならば死んでお詫びをすればよい、と。
4日の連絡会議の後、近衛は陸海相を別室に呼んで、珍しく大演説を行い、頂上会談の決意を表明する。海軍側は賛意を口頭で示したが、東條陸相は文書で注文をつける。三国同盟の弱体化に反対、ハル以下との会談は不可、会談不成功でも政権放棄は許さず、戦争遂行内閣を率いよ、など。そして、この会談は不成功だろう、と東条はこぼす。
野村大使、努力に努力を重ね、近衛ルーズベルト会談にやや曙光を見出すこと
8月7日にはアメリカの対日石油禁輸の情報が海軍によってキャッチされ、天皇もルーズベルトと会談するなら急げ、と近衛を促す。野村大使を通して会談の希望をハル長官に伝えたところ、日本の南部仏印進駐の撤回が無い限り難しい、と難色を示される。
8月14日、ルーズベルトとチャーチルによる大西洋憲章が電撃的に発表される。アメリカの対独姿勢は決定し、日本に対する英米の方針も一致していた。日本の新聞は英米の謀略と、盛んに煽る。
ルーズベルトがチャーチルとの会談から戻ると、ハルの日米首脳会談に関する態度はやや軟化し、野村に面会したルーズベルトは近衛との会談は検討に値する、としてアラスカを会談場所にどうか、時期は10月中旬と、示唆した。これは暗雲に差し込んだ一脈の光であり、これを受けた東京では豊田外相とグルー大使が準備の協議を重ねるのであった。
東園寺、参謀本部が対ソ行動を起こさぬことを決定したことを尾崎にもらすこと
8月の下旬から、関東軍の首脳が東京に集結して、連日会議を開いているという情報を尾崎は入手した。日本軍の南進がきまり、ソ連への攻撃は当面行わない、ということだったが、あくまで条件付きであり、ソ連の兵力が弱体化する、または国内政治に問題が生じた場合は、ソ連への攻撃は十分ありうる。陸軍の中にはソ連を撃ちたくてウズウズしている連中がたくさんいる。尾崎は朝飯会でソ連攻撃の無意味を説くが、席上で有力な情報は他のメンバーからきくことができない。そんな折、東園寺が尾崎の事務所を訪問し、当面はソ連を撃たない決定をしたという情報を引き出すことに成功する。直ちに尾崎はゾルゲに今年中のソ連攻撃は無いと報告し、ゾルゲはこの情報を高く評価する。同志の宮城も、「殊勲甲だった」と。
尾崎、娘を連れてゾルゲと会見に赴くこと
尾崎は銀座での食事という約束を果たすため、国民学校4年生の娘の洋子を連れて、渋谷から満鉄ビルに向かう。食事の前にゾルゲに書類を渡す約束をしていたからである。満鉄事務所の事務所で尾崎が働いている間、洋子はソファの上で、「子供世界歴史」を読んでいたが、机で書き物をする父は、家での優しい父とは別人で、気味が悪かった。
天皇、励声一番、杉山参謀長を決めつけ、永野軍令部総長が助け舟を出すこと
政府は8月26日の連絡会議で、ルーズベルト大統領の申し入れに対する回答を決定し、近衛の平和解決への意欲的なメッセージも添えて米側に伝達した。近衛のメッセージは立派なものだとルーズベルトは評価したが、その内容が、野村大使のうっかりリークによってアメリカの新聞に漏れてしまう。日本政府は慌てて、国内報道に制限をかけるが、噂は徐々に広まっていった。対日資産凍結、対日石油禁輸などの米側の強硬措置が取られ、世論が硬化していたさ中であったため、親枢軸派の軍人や右翼を刺激し、近衛の軟弱外交を止めさせろ、という声が上がった。8月以降、陸海外相との懇談会や連絡会議は目立って多くなるが、「日米交渉」から「対米英戦」へと議論の中心が変化していった。
統帥部の要請で9月6日に御前会議が開かれる運びとなり、議案は「帝国国策遂行要領」であった。戦争準備の次に外交交渉が記されていたため、その順番の意味を心配した天皇は、前日に内奏した近衛にその懸念をぶつけると、近衛は両統帥部長に事前に問いただすことを天皇に勧める。
奏上の際、戦争終結の見込みについて下問を受けた杉山参謀本部長は要領を得ない返答で天皇の激しい反問を受ける。永野軍令部長の助け舟でその場は切り抜けられたが、控室に戻った杉山は、親指を上に突き出しながら、「今日は、これがばかにご機嫌が悪かった」と、うそぶくのであった。
帝国国策遂行要領
天皇、御前会議の席上で異例の発言をなし、明治大帝の御製を朗々と読上げること
9月6日の午前会議では、原嘉道枢密院議長が、「戦争が外交に優先しているように見える、政府と統帥部の説明を求める」と批判を込めて発言したことに対して、及川海相は外交努力を尽くしたのちに戦争を考える、と返答する。しかし、参謀本部長、軍令部長とも、昨日の上奏で十分だと言わんばかりに一切の説明をしようとしない。
天皇は両統帥部長に対し、説明が無いのは甚だ遺憾、と癇の高ぶった激しい言葉で発言され、一堂に緊張が走る。そして、明治天皇御製の句を読まれ、この非常時に統帥部長は何と心得ているか、と叱責される。両統帥部長は、申し訳程度にしか聞こえぬ答弁を行い、無事、御前会議を切り抜ける。御前会議は未曽有の緊張の下、終了するが、天皇の異例の質疑にも関わらず、誰一人天皇に同調するものなく、要領の解釈論で終わってしまったのである。近衛も及川海相が政府側を代表して答弁したということで、無言であった。
日米交渉は10月中旬まで、と期限が区切られてしまった。近衛は細山邸にグルー大使を内密のうちに夕食に招待し、じっくり真意を伝えよう考えるが、事前に陸海外相に秘密会談への同意を求めた。東條陸相は米国が求める4条件に全面同意することがなければよろしい、と答える。その4条件とは、中国内の日本軍の駐兵、中国の機会均等、三国同盟、仏印問題のことである。4条件の主義には賛成だが、実際の運用には支障があり、だから大統領と話したいのだ、という近衛の説明に東條は同意する。
近衛公、細山邸でひそかにグルー大使と会見し、心懐を吐露すること
近衛は今日の午前会議を思い出し、天皇陛下の異例ともいえる強いご発言に心を痛めていた。天皇は孤立している。統帥部をはじめとする軍部は天皇を神格化することで祭り上げ、天皇と国民の間に距離をつくる一方、天皇の名前を借りて、国民に暴力を振るっている。政治家は軍部の暴力を恐れ、屈服している。
細山邸のグルーとの秘密夕食会で、陸海軍最高首脳の支援、同意を自分は得ているとし、早くルーズベルト大統領との会談を実現させたい、と訴える。近衛にしては珍しい長口上に、グルーは心を動かされ、外交官生活で、最も重要な電報を本国に打つことになる、とまで言う。
グルーとの秘密会談に満足した近衛は、自宅に戻らず、赤坂の待合へ向かい、一晩を過ごす。
近衛公、アメリカ側に尽くすべき手を尽くし、運を天にまかせて鎌倉山に赴くこと
あれだけグルー大使に熱弁を振るい、グルーを感動させたはずにも関わらず、米国側からの返答は1週間、10日経っても来なかった。交渉期限である10月中旬も遠くはなく、陸軍の中には「主義としては賛成」だったはずのハル4原則に対して公然と異を唱える者も出てきた。
一番の問題は中国からの撤兵で、陸軍の中も多様な意見があり、名義や形式を問わないとする穏健論から、軍の方針は絶対不変、という暴力的強硬論もあった。
しびれを切らした近衛は牛端秘書を米大使館ドゥーマンのところに送り、米国の内情を探らせるが、近衛・ルーズベルト会談については何ら連絡が本国から届いていないことを知らされる。どうやら野村大使が国務長官あてに書いた手紙が事態を混乱させているらしい。「中国に対する講和の基本方針」につき、豊田外相はグルー大使を呼んで、米国の斡旋を要請することを改めて示した。
その3日後、寺崎欧米局長が米国大使館に赴き、6月21日の米国案に対する日本側の無回答、遅延が招いた混乱を払しょくするために、これまでの日本側のすべての回答や声明を文書にまとめて提出した。そこに新たな提案は何もなかった。 尽くすべき手はすべて尽くした、として近衛は9月27日から10月1日まで、鎌倉の山荘で休養を取りながらアメリカからの回答を待った。しかしながら、10月に入っても、何らアメリカの回答は無かった。
尾崎、満州で対ソ戦中止の状況をつぶさに観察し、眼を日米交渉の見通しに向けること
9月はじめから、尾崎は満鉄調査部の会議に出席するため、2週間強、満州に出張し、満州の現状をつぶさに見学する。中国問題の権威として知られていた尾崎は、行く先々で満鉄社員に歓迎され、有益な情報を労せずして入手することが可能だった。
7月に関東軍から大量輸送の準備命令がでたものの、実際に大量輸送は行われず、3000名の従業員徴用準備命令が出たが、実際の徴用は10数名で終わった。これらの事実は、尾崎が東京で東園寺から入手した、日本軍の今年中のソ連攻撃は無し、という情報を裏付けるものだった。
満州における中国人は生活苦から不穏な状況を生み出しており、治安も悪化している。日ソ戦が起これば、満州で革命も起きかねない状態である。帰国した尾崎は、日本がソ連を撃たないのは、あくまで当面であり、鉄道建設も進められていることから、ソ連に危機は再び訪れるかもしれない、と念を押すと同時に、日米交渉がいずれ決裂する、との見通しをゾルゲに伝える。中国問題や南進中止で日本側は譲歩を示しているにも関わらず、米側は乗ってこない。
尾崎には近衛内閣総辞職の噂が入ってくる。
近衛公、東條から人間、一度は清水の舞台から飛び降りる覚悟が必要だと言われること
10月になり、鎌倉山の別荘から戻った近衛は、富田書記官長を使って、陸海軍の意見を聞こうとするが、陸軍、とりわけ東條陸相は、原則的に日本軍中国から撤兵し、しかる後に再配置する、と言う案には絶対反対だった。
10月12日、近衛の50歳の誕生日に、荻外荘に陸海外相と鈴木企画院総裁を招いて、和戦いずれかの方針を決める運びとなる。それに先立ち、近衛は富田を及川海相に自宅に送り、翌日の会議で近衛を支持するよう求め、及川の内諾を得る。翌日の荻外荘での秘密会議では、中国からの撤兵問題への対応が和戦の方針を決する、という整理はついたものの、東條陸相は中国からの撤兵には断固反対と言う態度を崩さず、会議は決裂する。
奏上の際、東條と再度話し合うよう、天皇から諭された近衛は、閣議の前に個別に東條を呼び、懇切丁寧に対米開戦の不合理さを説くが、一度は清水の舞台から飛び降りるべし、と東条から言われてしまう。総理の自分に対する東條の非礼にも耐えつつ、近衛は日清日露戦争の例を引き合いに出し、勝算が確実なかりせば、開戦あるまじき、と説得するが、東條は「自分と近衛の性格の相違」と言い放つ。そして直後の閣議で、日米交渉打ち切り、対米開戦やむなし、という爆弾動議を提出し、皆を驚かす。
尾崎、検挙を漠然と予感し、要するに死ねばいいだろうと覚悟を決めていること
10月の日曜日、尾崎は自宅で娘の洋子と遊んでいるが、1時に来訪するはずの宮城が現れない。尾崎は幸運なことに、今まで自分の身に危険を感じたことが無かった。しかし、国家非常時の現在、スパイの検挙は死刑を意味する。尾崎はその覚悟は自分にできている、と言い聞かせる。
宮城はもう既に情婦の家で検挙され、身柄は築地警察署に送られていた。
宮城、国際諜報網の発覚をおそれ、築地署の取調室から飛び降り自殺をはかること
宮城は、サンディエゴ美術学校を卒業後、アメリカ共産党日本人部に昭和6年に入党、そこで洋裁師で画家の人妻、北林トモと知り合い、情交を結ぶ。やがて二人は帰国し、宮城は諜報員として活動を始めるが、北林は連絡係として宮城の手伝いをする。
日本共産党は昭和8年以降、壊滅状態にあったが、警視庁は再結成の動きを察知し、関係のありそうな人物を片っ端から検挙していったが、検挙者の口から北林の名前が割れた。特高はしばらくマークした後に北林を挙げるが、特高の誘導尋問に騙された北林は宮城らの組織について喋ってしまう。直ちに宮城は逮捕され、前後して逮捕された水田茂が尾崎も含めたゾルゲのスパイ網の全て自白してしまった。
築地署の二階の取調室から宮城は飛び降り自殺を図るが、特高刑事が宮城に飛びつき、未遂に終わる。
東條陸相、鈴木企画院総裁を使者として近衛首相に辞職を勧告すること
東條が、日米交渉打切りの爆弾動議を閣議で提出した午後、陸軍の武藤章軍務局長が総理官邸に富田を訪ね、海軍の煮え切らぬ態度に不満を表明、首相に一任という曖昧な態度はやめさせろ、とねじ込んできた。海軍が対米戦争に明確に反対するならば、陸軍はそれを受け止めるが、総理一任と言う現在の意思表明ならば、開戦意欲に沸騰している陸軍を抑えられない、と。富田は近衛の意向も確認したうえで、岡海軍軍務局長に開戦についての態度の明確化を求めるが、岡は、首相一任が限界だ、と突っぱねる。海軍の無責任さに失望しつつ、富田は荻外荘の近衛のもとへ向かうが、近衛は陸軍大臣の使者としての鈴木企画院総裁と面談中だった。
陸軍大臣東條の意図は、海軍が戦争を欲しないにも関わらず首相に責任を押し付けて煮え切らないのは、9月6日の午前会議に出席した閣僚が輔弼責任を果たしていないことに他ならず、現内閣は総辞職し、新しい内閣で対米案を作り直すべきだ、というものだった。そして、陸海軍を押さえて新しい案をつくる力はもはや臣下にはなく、東久邇宮殿下に後継首相へと奏請することに尽力してほしい、と。
翌日、奏上した近衛に対し、天皇は東久邇宮首班に否定的だが、絶対反対でもない、とのお立場であった。しかしながら、宮中での結論は、皇族が政治の局に立つことをよしとせず、東久邇宮内閣は幻に終わる。10月16日に近衛内閣は総辞職をし、木戸内府は東條を後継に推薦、重臣会議を経て、東條に大命降下がなされた。
尾崎、警視庁特高課員らの手により目黒署に拘引されること
10月14日の午前、登校する娘の洋子と入れ違いに、東京地検の検事が尾崎宅を訪れ、尾崎は目黒署に拘引される。尾崎が拘引されたあと、厳重な家宅捜索が午前中いっぱい続けられた。
尾崎、コミンテルンのスパイとして取り調べられることを知らされ、驚愕して失心すること
宮城は既に肺結核が進んでおり、自殺が未遂に終わると、将来を諦観したのか、陳述を始める。その内容は、検察当局が当初想定したよりも遥かに大きな、世紀のスパイ事件とも呼ぶべきものだった。そして宮城の逮捕の6日後には、尾崎が逮捕された。首魁はゾルゲで、その下に尾崎と宮城、さらにその下に多数の日本人協力者がいた。ゾルゲはフランクフルター・ツァイチング紙の特派員で、ドイツ大使館に出入りしているため、ゾルゲの逮捕が日独間に悪影響を及ぼすことを司法部は怖れた。東京地方検事局と内務省は、尾崎とゾルゲの同時逮捕を主張したが、大審院検事局が躊躇したため、尾崎の単独検挙が断行された。
検事と特高による尾崎への尋問は苛烈を極め、尾崎は宮城が逮捕されていることを知らされ、絶望する。
尾崎、世界革命の一環としての東亜新秩序論を述べること
日本人の尾崎ではなく、コミンテルンのスパイである尾崎を取り調べているのだ、と取り調べの警部に言われ、尾崎は自白を決意する。
尾崎の陳述は昼夜三日間を通して行われたが、理論整然と淀みなく、豊富であった。彼は軍事スパイとして扱われることに我慢がならず、最高の共産主義者として振る舞い、かつ自らを政治家と称した。
尾崎の考えでは、日本は対米戦争に勝利することはできず、敗戦後に自立再建する力を支配階級はもはや持たない。従って、敗戦後の唯一の日本再建策は、ソ連と手を結んで共産主義国家の段階に到達し、中国共産党とも手を結ぶことである。そして発展途上のアジア諸国を欧米の帝国主義から解放し、日ソ華の三か国が中心となり、共産主義民族共同体を形成すべきなのであった。尾崎は南方民族の解放を、近衛の言うところの東亜新秩序の絶対必須としていたが、その背後には共産主義の謀略が秘められていたのであった。
尾崎が考えていたのは、世界の新秩序、世界革命の一環としての「東亜新秩序」であり、極端な右翼理論が左翼理論と紙一重で握りあっていたのである。
近衛自身は何も気づいていないだろうが、実に危険な話だ、と係官は慄然とした。
尾崎、何もかも自白した後、係官に捕らわれの心境を語ること
洗いざらい全てを供述した尾崎は、さっぱりした気持ちになって特高の刑事に気軽に打ち明け話をする。日米開戦は不可避、かつ日本が敗北する見通しを述べ、これまでの経緯と軍部の横暴さ、近衛の決断力と実行力の無さを批判する。そしてコミュニストのスパイと言う立場上、家族を含め多くの仲間たちの善意を裏切ったことを思い起こし、自責の念に苦しむ。
尾崎は自身の処刑は覚悟していたが、残される妻子の顔姿が浮かんでくるのであった。
ゾルゲ、鳥居坂署の特高にアッパーカットを喰らわすこと
ゾルゲと愛人の三谷速子が銀座のローマイヤに行き、地下の酒場に入ろうとすると刑事が多数、張っていた。いつになく人数が多い。速子は今まで何度も特高刑事の聞き込みを受けていた。速子の自宅にも刑事は訪れ、ゾルゲのような毛唐と付き合っていても良いことは無い、はやく別れろ、などと度々言われる。速子の話を聞いたゾルゲは怒り狂い、若い特高刑事を路上の出会い頭に殴ってしまう。
銀座ローマイヤ―(第一次大戦の際、青島で日本軍捕虜になったドイツ人が日本に住みつき開いた店)
ゾルゲ、身辺の危険を予感し、上海逃亡を企てて失敗すること
鳥居坂署の特高刑事は執拗に三谷速子に対して、ゾルゲとの別れを勧める。外国人がらみの別れ話は、3千円から1万円の手切れ金を貰って別れるケースが殆どだ、と説明して。
東京での任務がほぼ完了したゾルゲは速子と上海に逃亡を計画するが、速子のパスポートが取れず計画は頓挫する。そしてゾルゲが宮城と尾崎の逮捕を知った翌朝、ゾルゲらコミンテルンの3人の外国人は逮捕される。
ゾルゲの逮捕はドイツ大使館に大きな衝撃を与え、自分の妻がゾルゲと情交を結び、情報提供をしていたことを知ったオットー大使は卒倒する。東園寺や犬丸ら数名が尾崎への情報提供のかどで一切検挙され、話を聞きつけた陸軍が、なぜ近衛を逮捕しないのか、と警視庁に迫るのであった。近衛公の身辺が危ない、と巷で噂が流れる。
政府、統帥部一体となって、開戦のための御前会議を開くこと
東條内閣は9月6日の午前会議の決定に立ち戻り、米国に来栖三郎を野村大使のサポートとして派遣し、日米交渉を継続していたが、同時に開戦準備も着々と進めていた。軍部の開戦意欲はますます高まり、ジャーナリズムはアメリカによる日本への経済圧迫を非難し、東亜新秩序を叫ぶ好戦的な論陣が声を強めていった。しかしながら日本の軍事力の実態は国民には伏せられ、情報がないまま、多種多様な意見が国民の間で交わされていた。
政府と統帥部の連絡会議は毎日のように開かれたが、日米交渉は見込みなし、という意見が支配的となり、米国が日本軍の中国からの撤退を求める以上、妥協は不可能と考えられた。東條の度重なる上奏によって、天皇も開戦やむなし、と言う方向に段々と傾いていく。
古田茂(吉田茂)は東條から呼ばれ、開戦回避の可能性をグルー大使に探ってくれと、頼まれるが、グルーが本国から得た回答は、日本に妥協する形での解決に否定的な内容だった。古田は政府と重臣が一緒になって御前会議を開き、重臣から戦争回避の案を述べて天皇の裁可を引き出す案を考えるが、軍の暴力を恐れる重臣は、誰一人として奏請に動こうとしない。その動きを察知した東條内閣は、11月29日、開戦決議を御前会議に上奏する。それに先立つ重臣会議では、戦争不可避と東条が断定し、廣田弘毅と近衛以外の重臣は異を唱えなかった。ここに日米開戦は決定し、真珠湾攻撃が12月8日に発表される。
近衛公、百姓になろうか、学校を建てようかと迷うこと
真珠湾奇襲攻撃の後、日本軍の快進撃は暫く続くものの、昭和17年6月のミッドウェー海戦での大敗北が一気に形成を逆転させる。これは海軍が当初ひた隠しにした大敗北であり、東條首相すら暫くの間は事実を知らされなかったほどであった。
近衛は様々なソースからミッドウェーの大敗北も、その後の敗戦についても正確な情報を入手していた。日本の敗北を信じて疑わない近衛は、他人事の様にその見通しを周囲に漏らすが、そんな近衛に対する批判も存在していた。しかし、第二次近衛内閣の際、日本に立ち戻った山本五十六を荻外荘に呼んだ近衛は、山本の見通しを確認しており、緒戦勝利の後は連敗が続くことを信じて疑わなかった。
近衛は京都の陽明文庫あたりに学校を建てようと考えだし、お忍びで、妾のお駒と京都に出かける。しかし、あれこれ考えるうちに、実際の学校設立は人材確保も含めて面倒であり、東條内閣の妨害も予想された。またもや困難に直面した近衛は、お駒との交接の快楽のうちに、一切の面倒を刹那、忘れようとするのであった。
古田、近衛公をスイスへ何となく滞留させる案を木戸内府に進言すること
古田は近衛に、中立国であるスイスに行って各国の政治家と会い、和平交渉の準備をすることを勧める。ミッドウェー海戦の敗北はそれほど深刻で決定的に思われたが、海軍は虚勢を張って損害をさらに拡大しかねない。近衛は古田が同行することを条件に同意したので、古田は天皇の耳にも入れるべく、木戸に依頼をする。しかし、近衛は第三次内閣の投げ出し方があまりにも無責任だった、と天皇の不評を買っており、拝謁が許されない状況であったため、木戸は古田の提案に色よい返事をしない。
木戸は政治家としての登場を最近高く評価しており、それは自身が東條を推薦した張本人だからだろうと近衛は見ていた。木戸自身の政治的な動きが目立ってきており、近衛は不快感を覚えるのだった。
近衛公、清水の舞台から飛び降りる覚悟で痔の手術をすること
昭和17年の夏を夫人と軽井沢の別荘で過ごした近衛は、秋になって帰京すると、痔瘻の手術のために東京帝大病院に入院する。近衛は長年痔疾を患っていたが、この夏には耐えられなくなるほど悪化していた。切開手術で完治すると言われていたにもかかわらず、あらゆる肉体的苦痛を忌避する近衛は今までその手術を頑なに拒んでいた。しかし、実際の切開手術に苦痛は伴わず、拍子抜けと言った感であった。
千代子夫人は近衛の煮え切らない、いつも曖昧に事を濁す態度に愛想をつかしていた。その結果、近衛と醜聞のあった女中頭のトキが増長し、千代子夫人の座を脅かしかねないと危惧した牛端秘書官らの意見によって、トキに暇を出されることになったのだが、その荻外荘での女中騒動の間、近衛は常に傍観者の立場を貫いた。30年連れ添った千代子夫人でも、近衛の心中が読めなくなることが度々あった。
書記官長だった富田が術後の近衛を病院に見舞うと、近衛は長谷川一夫と山田五十鈴が見舞いに来てくれた、と話す。そして、さりげなく、山田を愛人にできないかと富田に訊ねる。富田は、近衛の精力と大胆さに、改めて感心するのであった。
近衛公、ゾルゲ事件の検挙の手が身辺に及ぶことを極端に怖れること
近衛は痔疾で帝大病院に入院中、絶えずゾルゲ事件の事を気にしていた。尾崎は、第一次近衛内閣の時に、書記官長風見章の推薦で、内閣嘱託にした経緯があった。その後、朝飯会などで政策提言をするメンバーの中に尾崎が入っていたことに近衛自身は違和感がなかったが、右翼や軍の一部が、近衛の側近にコミンテルンの共産主義者がいたことで騒ぎ出した。しかし、近衛には皇室中心主義の血が流れており、共産主義者呼ばわりされることには我慢がならなかった。ゾルゲ事件で公判が始まれば、近衛が証言を求められることも想定され、近衛は想像しただけで嫌悪感に襲われた。そんな事態にならぬよう、各所に手を回すよう、内務官僚出身の富田に近衛は依頼する。
尾崎は熱心な東亜新秩序論者であった。東亜新秩序とは、中国への侵略戦争を美化し、国民の士気を新たな方向に結び付けるには革新的な言葉であった。尾崎は自らの論文の中で、この戦争を世界史的転換期の戦いと位置付けており、軍部に対して、徹底的に戦い抜き、世界戦争の最終勝者となることを強く求めていた。陸軍は、詰まるところ、尾崎同様、世界戦争の覇者となって、世界新秩序を打ち立てる国体変革への挑戦をしようとしているのか。
東條首相、国内の結束を乱す者はいかなる高位高官でも、断固処分すると宣明すること
近衛はゾルゲ事件がひと段落着いた昭和18年1月に退院、荻外荘へ戻る。巷では近衛が右翼や軍部に脅迫されるのが嫌で病院に隠れていた、という噂すら流れた。
ソロモンでの半年間の死闘を経て、日本軍の飛行機が質量ともに決定的に欠けることが明確となり、日本軍の劣勢は隠しようもなかった。ガダルカナルで一木連隊は悲惨な最期をとげ、田中新一中将は、陸軍の大陸中心主義を改め、太平洋での対米戦に戦力投入を強化し、勝利を収めることの重要性を説くが、東條に反対され、参謀本部を追われる。その後、南太平洋からの陸軍兵の引き上げが続く。
酒井縞次中将が近衛に陸軍の内情を伝える役目を果たし、酒井は東條の非才、器の狭小さを痛烈に批判していたが、反東條派とみなされ、やがて動きを封じられてしまう。東條は、貴族院本会議の席で、国内の結束を乱す言動は、いかなる高位高官であっても断じて許さない、との宣言を行う。そこには、近衛も明らかに含まれていた。
近衛公、戦争終結についての上奏を周囲から勧められること
昭和18年10月、海軍は夜襲攻撃をかけようとしたサヴオ島海戦で、新兵器、電波探知機を使用した米軍に惨敗する。日本軍が得意としていた夜襲攻撃が今後封じられることになり、今後の戦況見通しは極めて暗い、と酒井中将の後任として近衛への情報提供者となった高木惣吉大佐は、力なく報告する。電波探知機は日本軍の研究が早かったにもかかわらず、途中で研究を断念した経緯があり、もはや後の祭りであった。
昭和19年1月、日本軍のガダルカナルからの撤退が決定される。ガダルカナルは絶対防衛線であり、それが破られた以上、もはや勝利は無い。富田と酒井縞次中将が荻外荘を訪問し、近衛が勝ち目のない戦争中止を上奏するように強く働きかけるが、酒井の主張に同意しつつも、近衛は動こうとしない。第三次近衛内閣の投げ出し方にお怒りの天皇陛下の心中を木戸内府が忖度し、近衛の上奏を取り次がないだろう、と近衛は諦めていたのであった。
酒井縞次

高木惣吉

中野正剛、日比谷公会堂で東條内閣批判を獅子吼し、堂々三時間半に及ぶこと
反東條の動きは、近衛周辺以外からも出てくる。特に東方会の中野正剛一派の動きが目立ってきた。東方会は右翼団体と見做されており、中野は三国同盟支持者で南進論者であったが、戦争開始後は、反東條の立場で戦争反対論者となった。「言論集会結社等臨時取締法」案が、中野の逆鱗に触れたのであった。東方会幹部で若手代議士の三田武夫(三田村武夫)が、内務省や司法省を回って法案撤回を迫ったが、政府、議会とも了解済みという前提で、未審議で法案が一夜にして成立した、という経緯があった。
中野は東條を無知で見識の無い愚かな軍人で、戦争指導などできないと見抜いていた。負ければ革命、万一戦争に勝てたとしても、恐ろしい独裁政権が誕生すると危惧していた。それを阻止するために東條を倒して、戦争を辞めさせるべきだ、と。
昭和17年に行われた第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)では、東方会は翼賛政治体制協議会からの推薦を拒否して独自候補を擁立したが、当局からの弾圧もあり、当選者はわずか5名であった。東方会は解散を命じられ、中野は翼賛政治会の一員として議員の命脈を保った。
昭和18年1月1日、中野は朝日新聞の巻頭論文として、戦時宰相論を発表し、それが東條との確執を決定的なものにした。
中野正剛
言論集会結社等臨時取締法案

三田村武夫

東條政権、戦時刑事特別法の成立によって、防弾チョッキに身を固めること
言論活動を完全に封じられた中野ら東方会は、総理経験者である重臣を動かして東條内閣を倒すことを画策する。中野らは重臣責任説、すなわち東條内閣を推薦したのは重臣なので、重臣の責任の下、東條内閣に始末をつけるべきだ、という理屈である。しかし、重臣の中には東條を支持している者もいれば、政治にもはや無関心という向きもあった為、行動は秘密裏に行われた。
三田の説得に対し、近衛はうんざりした様子で、重臣の責任ばかり問うのではなく、まず議会を反東條でまとめろ、と反論する。ちょうどその時分、東條内閣は「戦時刑事特別法改正案」を第82議会に提出する。
この改正案は国政変乱罪を拡大解釈し、倒閣運動は勿論、政府にとって望ましくないあらゆる動きを国政変乱罪とみなし、厳重な処罰を加える、という東條内閣の独裁的野望をむき出しにした内容だった。三田らの反対運動で、改正案審議は難航するが、反対派だった翼賛議員たちも政府側の脅迫、懐柔などの切り崩しにより篭絡され、三田らの一か月以上に及ぶ奮闘は結実しなかった。
戦時刑事特別法

近衛、木戸に会い、軍部の「50年戦争計画」なるものについて話すこと
昭和18年2月、日本軍のガダルカナル敗北とほぼ同時期に、ドイツ軍はスターリングラードの戦闘でソ連軍に敗北を喫した。その敗北を踏まえ、外務省内部では、以後の欧州戦局を分析したところ、ドイツ軍勝利の可能性は低く、日本はドイツ屈服の前に政策の転換を図るべし、というものだった。これを聞いた近衛は、前から自分が言っていた通りだ、と外務省見解を遅きに失している、と嘆く。
天皇の耳に届くようにと、戦争終結の進言をする気になった近衛は、木戸に会って熱弁を振るい、戦果を挙げるまでは戦いを続けるべきだ、という木戸の考えを真っ向否定する。近衛の頭からは、尾崎の「共産主義による世界新秩序構想」が離れず、人から聞いた、軍部の「50年戦争計画」による国民窮乏化がやがては赤色革命につながるのではないか、と熱心に木戸に説く。赤色革命から日本を救うために、今すぐ戦争を終結すべし、という、いつにない近衛の熱心さに、最初は軽く聞き流していた木戸も、最後には陛下にお伝えする、と言うのだった。
近衛、山本長官戦死の報をいちはやく知り、三田武夫にもらすこと
議会を通じての東條内閣打倒に失敗した中野は、再び重臣工作による内閣打倒に戻る。中野の指令で三田が、連日、重臣と会談を続けた。近衛を荻外荘に訪問した三田に対し、近衛は山本五十六の戦死を告げる。山本の死が公表される一か月も前の事であった。
昭和18年半ばになると、戦局は悪化し、国民生活は目に見えて水準が下がっていった。アッツ島の米国進撃は国民の不安を煽った。これで空襲が頻繁に起こると噂され、大本営発表に国民はもはや信を置かなくなっていた。昭和17年のドウリトル爆撃隊による空襲を国民は鮮明に覚えていた。
そんな不安に国民が覆われていた時に、山本将軍の戦死が公表された。さらにアッツ島での山崎部隊の玉砕が報じられた。国民の士気は目に見えて低下していったのである。
中野、臨時議会の代議士会で、翼政幹部を茶坊主と罵り、鳩山と共に脱退すること
昭和18年6月15日、第82臨時議会が招集され、食料緊急対策と企業整理案が重要議題として審議される予定であったが、その審議期間がわずか1日であることに、中野らは憤慨する。政府と翼賛幹部が既に話を付けた後の出来レースで、先に成立した「戦時刑事特別法」によって委員会から締め出され、発言権を失っていた中野は、独裁的な東條政権に対して合法的な一撃を加えることを思案した。自由主義者のレッテルを貼られ、軽井沢に遁世していた鳩山一郎の議会での応援を得て、中野は議会発言の中で、国を亡ぼすのは翼政幹部であり、彼らは権力者の茶坊主だと、攻撃する。会議は大混乱の中で終わるが、中野らの主張が通ることなく、審議は終了する。中野は権力にすり寄るだけの翼賛会に見切りをつけ、同会を脱退、鳩山も続く。
軽井沢に戻った鳩山と中野の名代で訪ねてきた三田は、戦争終結に向けて今後の協力を誓うが、重臣の頼りなさ、特に近衛の胆力の無さには二人ともお手上げで、嘆くばかりだった。
細山、機転をきかせて後からつけてくる憲兵の自動車を停め、威すこと
東條政権打倒の動きが出てくると、細心かつ神経質な東條は憲兵政治を露骨に始め、反東條的な動きをする人物には、私服憲兵が張り付くようになった。加藤泊次郎や四方諒二らが東條の忠実な輩下であり、東條の気に食わぬ人物をいつでも容易に逮捕できた。
細山は富田の自宅を訪問した際に、不審な車が駐車しているのに気づき、調査の結果それが東京憲兵隊所属の車と判明する。荻外荘も憲兵により厳重にマークされていることが判明した。
加藤泊次郎
四方諒二
近衛、東條の憲兵政治の脅迫にあい、天皇に直訴すると息巻くこと
ある朝、憲兵大佐が突然、近衛を荻外荘に訪問し、中野ら反東條分子と交わるのは止せ、と忠告する。東條の後ろ盾があるとはいえ、一憲兵大佐の非礼なる物言いに近衛は激怒する。なにゆえ東條はここまで昇りつめることができたのか。
永田鉄山の殺害後、予備役編入の一歩手前だった東條は、永田よりも年長だったことが幸いし、対華強硬派の統制派が推すところとなり、関東軍憲兵司令官として渡満する。そして226事件が起きた際、満州で皇道派分子を憲兵隊で徹底的に弾圧し、統制派の雄として名を上げ、板垣征四郎の後任として関東軍参謀長となる。満州では、岸伸介と星野直樹が側面から東條の憲兵政治を支援した。
日華事変の不拡大派を理由に、本部から追われた石原莞爾が副参謀長として満州に赴任するが、満州での王道楽土を夢見た満州派の石原は邪魔な存在であり、東條は策をろうして石原を駆逐する。戦術上の才覚に劣る東條は、満州派の台頭を極度に警戒しており、憲兵司令官当時の部下を使い、満州派を徹底的に弾圧する。憲兵政治のテロリズムは、敵対する相手への示威行動としては有効であり、第二次近衛内閣の陸相に指名されるに至り、東條の地位は盤石となる。
近衛は憲兵テロリズムに遭遇して、東條を推薦した重臣の誤りを深く反省する。そして、東條排除を天皇へ直訴する決意を固める。
近衛らのグループ、後継内閣の首班として宇垣擁立に動くこと
天皇に直訴までして東條をやめさせる、と三田の前で息巻いていた近衛だが、段々その熱意は薄れ、煮え切れない態度で軽井沢に引っ込んでしまう。それでも、軽井沢には鳩山、古田らの平和主義者が別荘を構えており、東條を辞めさせる話が、各所で行われていた。
近衛の周囲では、宇垣一成大将を擁立する説が有力になっていた。いかにして陸軍をおさえるか。それには予備役になっている大物たちを引っ張り出す必要がある。宇垣も軽井沢に呼ばれ、大物たちとの会合が多数セッティングされた。
昭和18年年の夏、軽井沢には多数の大物の往来があり、打倒東條の巣窟の様相を呈した。
重臣会議、東條に居直られてウヤムヤに終わること
中野らが企画した重臣会議が8月30日に華族会館で開かれることになった。軽井沢での意見が宇垣首班で固まりつつあったためである。岡田、近衛、若槻がこの会の主要メンバーであり、戦局、政局に関する正確な資料を作成して東條に突き付け、辞任を促す手はずが確認された。東條が辞任に傾いた場合は、若槻が宇垣の名前を挙げることも合意された。
しかしながら、東條はこの動きを察知しており、自分一人での出席は拒み、側近を従えての出席に拘った。結局、この重臣会議は事前の協議とかけ離れたものとなり、単なる会食の場となってしまう。時局に懸念を表明した若槻に対し、東條は居丈高な態度で反問し、居合わせた重臣は、ただ沈黙するだけであった。岡田も米内も約束した発言をしなかった。
近衛は自らの責任を棚に上げて、こんなバカバカしい会議は無かった、と会議場から軽井沢に直接戻る始末であった。
三田、戦刑法の倒閣謀議の嫌疑で先ず捕らえられること
東條打倒には重臣は役に立たぬことがわかり、中野らは荒木、真崎などの大物退役将軍の力を借りようとする。東條に対して批判的な両人ではあったが、予備役将軍らを纏めて東條に対峙しようとする胆力は全くなく、傍観者の立場であった。
とある宴会の途中、廊下で三田は突然刑事に引っ張られ、警視庁で取り調べを受ける。最初は出版物の手続きに関する取り調べだったが、やがて尋問は特高課にうつされ、重臣を交えた倒閣運動について執拗に聞かれる。三田は中野との間で、弾圧を受ける際は全てを自分達の責任で始末し、他の人々には一切迷惑をかけぬことにする、と約束を交わしていた。三田は自分以外のことに関しては、一切の陳述を拒否するのであった。
三田、看守巡査の禅問答で留置場の生活の無聊を慰められること
三田の拘留は、一か月半に及んだ。若いが神経質で気性の激しい三田には、独房生活の孤独は耐え難く、東條への怒りは高まる。現役の衆議院議員である三田の逮捕は明らかに違憲である。
中野、天野らと共に検挙され、警視庁に留置されること
昭和18年10月25日に第83臨時国会が開会予定であり、国会会期中は議員である三田は釈放されねばならない。そう考えているうちに、中野正剛と天野辰夫が留置場に拘留されてくる。義足で介助者なしでは生活に支障のある中野の身の上を思い、三田は心を痛める。
三田は中野に、間違わんで身体を大切に、と声をかけるが、それが三田が見る中野の最後の姿であった。
中野、憲兵隊に身柄を移され、三田、温泉に連れていかれること
中野も三田も検束処分で拘留されていたが、憲法で身柄を保障されている国会議員をいつまでも警視庁に拘留しておくわけにはいかない。警視庁の主任警部は何とか罪状をでっちあげて検察送りにしようとするが、三田はその手には乗らない。突然、二人を釈放する、という通告がなされたが、それには国会には出席せず、代わりに温泉で休養するという条件が付けられていた。三田はその条件を拒み、あくまで国会に出ようとするが、中野が既に同意した、と聞かされ翻意する。温泉とは熱海であった。
中野、憲兵隊の護衛付きで自宅に帰った晩に自決して果てること
憲兵隊は全面供述を条件に釈放を中野に仄めかすが、中野は会期中の残り三日間だけの釈放で、その後は再び拘束される、と見抜く。中野は全てを供述する肚を決め、東條内閣打倒計画の詳細や東久邇宮との関係まで詳述した。その後、憲兵中佐が現れ、中野に最後の始末を自分でつける機会を与える、さもなければ、我々がお前の始末をつける、と脅す。覚悟を決めた中野は、二人の私服憲兵に付き添われて代々木の自宅へ戻る。
身ぎれいにして白髪も染めた中野は、紋付で正装して家族と夕食を取る。その深夜、隣室に私服憲兵がいるなか、自室で中野は自刃におよぶ。誰も気づかぬ、静かな最期であった。
翌朝、中野の最期の姿を見届けた頭山満は、古武士も及ばぬ立派な最期だ、と言った。
細山、高松宮に東條を絞め殺すから呼びつけてくれと迫ること
昭和18年の秋、近衛は二度目の痔疾の手術のため、東京帝大病院に再入院する。入院中も東條の憲兵恐怖政治に対する怒りが収まらない。東條は倒閣運動が水面下で進んでいることに気づいており、近衛周辺への警戒にぬかりない。反東條の、富田、細山、甲山らは、近衛の病室に情報を持ち込み、策を具申する。女婿の細山は、東條を絞め殺しても良い、と高松宮に打ち明けたほど東條への憎しみを高めていた。ある晩、高松宮が近衛を晩餐に招いたが、意外にもその場には東條も招かれていた。宮はさりげなく講和の話題を持ち出すが、東條は即座にその考えを否定する。宮をたしなめる様な、断固たる物言いで、近衛は東條の居直りだ、と不快感を新たにする。
酒井、ドイツの和平交渉に関する極秘の「須磨電」を近衛に漏らすこと
入院中の近衛の下へ、参謀本部付の酒井鎬次中将が変装して訪れ、外務省からの極秘情報を伝える。スイス公使である須磨が電報で伝えたところ、ヒトラーが極秘にアメリカに対して、和平交渉を打診し始めたという。酒井は近衛に対し、今すぐ和平交渉に着手すべきだ、ドイツの裏切りは繰り返されており、日本もこのタイミングに乗り遅れてはいけない、と訴える。酒井による情報漏洩罪に対しては、死刑が不可避であり、死を賭してまでの酒井の陳情であったが、近衛の反応は鈍かった。結局、近衛は木戸に対して須磨電の内容を伝えるが、東條は狼狽する。入院中の近衛がなぜこの情報を入手したかは謎とされたが、作戦課の大佐が木戸に漏らした、ということで決着がついた。この大佐は東條の徴罪人事で前線に送られた事を知り、酒井は顔を曇らせる。
近衛、尾崎事件では実に嫌な思いをさせられた、と富田に述懐すること
昭和18年9月、ゾルゲ事件の首謀者たちへの判決が出され、ゾルゲと尾崎は死刑、共犯のクラウゼンとヴーケリッチは無期懲役だった。また、逮捕されていた犬丸は無罪、東園寺は執行猶予2年付きの有罪判決だった。入院中の近衛は、富田に対して、尾崎の行動は是認できないが、騙されたとはいえ憎む気にもなれない、と感想を漏らす。
入院中の近衛にとっての懸案事項は、東條を打倒して宇垣首班内閣をつくることだが、宇垣は第一次近衛内閣の外相で、それは原田熊雄の強い推薦による人事だった。しかし、宇垣は対重慶工作を陸軍に妨害されたことに嫌気がさし、わずか3か月で辞任した経緯があった。その辞め方が一方的で、それが近衛内閣崩壊の一因ともなったため、近衛は宇垣に対して複雑な思いを持っていた。
その年の夏、近衛は軽井沢で、宇垣や陸相の有力候補である反東條の小畑敏四郎中将とも面談していたが、彼らの肚はよくわからない。古田の勧めで、近衛は岩瀬を使いとして、小畑の考えを探らせることにした。
古田、宇垣に修正内閣組成の成算がないことを知り、宇垣を見限ること
近衛の命を受けた岩瀬は、古田と協議して、まずは宇垣の構想を探ることから始める。宇垣は陸軍は自分が何とかできる、と繰り返すものの、具体的な政権の構想はなかった。無策な宇垣に終戦工作などさせたら陸軍の東條一派にやられてしまう、と危機感を持った吉田、岩瀬らは宇垣に見切りをつける。
岩瀬、湯河原で静養中の近衛に岸国務相が東条に叛旗を翻した情報を齎すこと
昭和19年1月、退院した近衛は湯河原へ療養に赴く前、宮内庁の木戸を訪ねるが、近衛らの打倒東條の動きは、木戸にも既に知られていた。木戸も東條には見切りをつけ始め、東條の弁護役には、最早ならなくなっていた。近衛は岩瀬から、商工大臣の岸が東條に叛旗を翻し、木戸に協力していることを知る。東條は腹心の武藤章からも信を失っていた。
国民は長い戦争に倦み、生活は急速に窮乏し、治安や風紀の乱れが高まっていた。国民の天皇への信頼感も確実に低下していった。
岡田、嶋田海相に辞職を勧告し、東條に呼びつけられて威嚇されること
昭和19年2月、国民の不満を見て取った東條は4度目の内閣改造を断行し、自らが参謀総長も務め、首相、陸相、参謀総長を一人でこなすという異例の人事を行った。加え、自分と同様に、嶋田海相に軍令部総長をも兼務させるが、これには海軍内部から大きな批判が巻き起こり、嶋田解任の声が若い海軍将校の中で大きくなる。若手将校の要望を受けて、大先輩の岡田啓介は嶋田排除に動き出す。そして伏見宮に嶋田の辞職勧告について協力を求め、了承される。
岡田は嶋田に直接会い、辞職を勧告するが、嶋田は頑として応じない。すると翌日、岡田は東條より首相官邸までの呼び出しを受ける。そして予想通り、嶋田への辞職勧告について詰問され、岡田自身のためにならぬ、と憲兵恐怖政治をちらつかせ、威嚇するのであった。岡田が東條に脅かされた噂は瞬時に伝わった。
嶋田に辞職勧告を行った伏見宮に対しても、嶋田は応ぜず、宮へ別邸での静養を勧める始末であった。やむなく別邸へ赴く伏見宮を見送る岡田は暗澹たる思いであった。
東條、木戸に内閣強化の相談を持ち掛け、逆に木戸から三条件を出されること
昭和19年6月、米軍はサイパンに侵入を開始する。パラオ防衛の隙をつかれた作戦ミスの結果だが、連合艦隊は米機動部隊との戦いに惨敗し、取り返しのつかない損失を被る。にもかかわらず、大本営はサイパンでの戦いに勝利したという偽情報を流し、新聞はこれを報じた。外務省の情報部長である加藤はサイパンの虚報を海軍大佐から告げられ、その事実は木戸経由で天皇にも伝わる。近衛もこの情報をキャッチし、会う人々に吹聴したため、サイパン大敗北のニュースは確実に広まっていった。
度重なる敗戦に国民の絶望感は日増しに高まり、東條への支持は無いも同然であった。木戸が倒閣に関与していることを知らぬ東條は内閣強化への協力を木戸に依頼するが、反応は冷たく、暗に辞任を求める態度であった。天皇に奏上して、その意図を確かめようとした東條は、自らが天皇からの信頼も失っていることを知る。
東條、総辞職の閣議席で岸国務相を裏切者と面罵すること
嶋田を海相にしておくことができなくなったため、海軍の支持を得るため、東條は米内光正を無人所大臣として入閣させようとするが、人数合わせのため、商工大臣の岸を解任しようとする。しかし、岸は辞任要請に頑として応じない。
同時に重臣たちは会議を開き、東條の内閣強化策に一切協力しないことを約する。重臣は挙国一致内閣組成を強く提言する旨を文書にして木戸に託す。木戸から文書を受け取った東條はもはや自らの指導者としての運命は尽きたと観念し、総辞職を決する。しかし、東條は閣議で悪態をつき、その退場は気違い犬のような醜悪な最後であった。
近衛、後継首相詮衡の重臣会議で、陸軍部内に赤化思想があると述べること
東條内閣が総辞職したその日、7月18日の4時、重臣会議が開かれ後継総理の選定作業に入ったが、重臣は誰も後継首班の腹案がなかった。陸軍から、海軍から、と様々な名前があがり、決定打は無かったが、やはり陸軍からと言う線に落ち着いた。近衛は、陸軍に巣食う、左翼思想、容共思想こそが問題だと指摘し、この革命思想は国体の変革をもたらす重大事態であり、それらの赤化将校を一掃する必要がある、と重臣の前で熱弁を振るう。重臣会議は、寺内、小磯、畑の3名から後継を選ぶことで散会する。
近衛、岩瀬の助言から、小磯、米内連立内閣を思い付き成立させること
後継首班は結局、小磯に決まった、と木戸から連絡を受けた近衛は、自分には未知である小磯について、岩瀬に意見を求めると、あんな阿呆、というのが岩瀬の見立てだった。では、小磯を推薦した平沼と米内に責任を取らせようということで、近衛は最終的に小磯、米内の連立内閣を思いつく。米内はその案を了承するが、小磯は重臣会議に出る前に陸軍に言いくるめられ、陸相には日華事変当時の杉山を入閣させる羽目になる。陸軍内では依然として東條の力が強く、陸軍は小磯内閣にはソッポを向いた形の出だしとなった。米内も海相としての役目しか果たそうとしない。
近衛は最初の時点から、小磯内閣を見限り、さっさと軽井沢に逃げ込んでしまうのであった。