- 横井忠雄海軍中佐、国際電話問題で武者小路公共大使を追い出す
- 神経質で腕白な一つの怪物 ベルリン鬼の駐在武官、大島浩氏
- みやげ人形の追加支払いに応じない小心の永野修身軍縮会議主席全権
- 各国大使の末席にやっと坐れた井上庚次郎氏の代理大使問題
- 大使館がドイツ官憲を使って日本人を監視した、日独防共協定と秘密警察の恐怖
- 武ばったことの好きなドイツ人にもてた、軍艦足柄のドイツ訪問
- 鳩山氏だけが及第した欧米ゆき、国民使節数氏の現地での言動報告
- ナチス外交のずるさを見きわめた、東郷リッペントロップの張鼓峰事件会談
- 武官室の鼻毛をうかがう、商魂に徹したドイツの日本商社
- オリンピックと博覧会出品の招致で、朝令暮改に翻弄された有吉忠一氏
- 日独伊同盟にすこしも関与しない調印者、本心の分かりにくい来栖三郎大使
- 軍用の金で終戦までドイツで無為徒食、戦争を傍観していた技術工員の大群
横井忠雄海軍中佐、国際電話問題で武者小路公共大使を追い出す
横井忠雄中佐

1935年の日英米の三国海軍軍縮会議は決裂に終わるが、出席していた山本五十六中将は、ロンドンからベルリンを経由して、シベリア鉄道で帰国する予定を立てる。この情報を入手したドイツ海軍のレーダー海軍長官が、ベルリンの海軍駐在武官であった横井忠雄を通じて、ヒトラーが山本に会いたがっている、と会談をセッティングしようとする。問題なかろうと、横井武官は武者小路大使に軽い気持ちで相談したところ、外交の基本は英米との協調だという外務省の立場に忠実な大使は、その話にストップをかける。そして、ロンドンの松平恒夫駐英大使に国際電話をかけて相談し、二人は英米を刺激するような山本とヒトラーの会見は不可、という結論に達する。しかし、この国際電話はナチス側に盗聴されており、横井武官がレーダー長官に返事をする際には、日本大使館の意図は既に察知されていた。盗聴されることも知らずに、不用意な国際通話を行った武者小路大使に対して、横井武官は猛抗議をするが、物別れに終わる。横井はベルリン陸軍武官である大島浩大佐に事を打ち明け、両武官の共同戦線は直ちに成立する。
横井、大島の両武官は、武者小路大使は資質に欠けるとして、排斥運動を展開、矢面に立った武者小路大使は、いたたまれずに、賜暇休暇ということで、夏前にアメリカ経由で帰国することになった、という。
神経質で腕白な一つの怪物 ベルリン鬼の駐在武官、大島浩氏
大島浩

ここでは、ベルリンでの大島の数々の武勇伝が披露される。
大島に関しては、「ナチスべったり」 「武闘派」 というコワモテのイメージを持っている人が多いように思う。しかし、著者は大島を、「軍人に似合わず、音楽や絵画に趣味を持っている」 「神経質といって良いほど気が付く」と、描写し、そして「新聞人を粗略にしなかった」と、言う。「たいていの陸軍軍人は、新聞人を無視することをもって得意とし、いばりちらすのがふつうであった」。
しかしながら、大島の鼻っ柱が強かったことは事実であり、彼自身、「僕は腕白ものだから」と、語っていたという。
まず、最初に大島に「血祭りにあげられた」大使として、永井松三大使があげられる
永井松三

1934年8月7日に行われた、故ヒンデンブルグ元帥の国葬に、永井大使が天皇陛下の名代として出席することになる。各国の外交使節が、ABC順に大きな花輪を持ちながら霊前に進み、献花するのだが、なぜか日本国が献花すべき花輪がその場になく、霊前で永井大使が右往左往をするという醜態をさらす。実は、その朝に、海軍武官がすでに日本を代表して献花を終えていた、というのが真相らしいが、「当時の官僚や軍人の無責任さがさらけ出ていた」と、著者は述懐する。
大島もその葬儀に参列しており、タンネベルグの斎場からベルリンへの帰宅は既に夜遅かった。ところが、その晩、大島は大使館邸に乗り込み、永井大使の振舞は、醜悪だった、と、色をなして大使を詰問する。日本の体面にかかわることであり、大使は責任を取れ、と大島は永井に迫る。空が白むころまで二人は言い争うが、しまいには。永井大使は、「あなたとはもう話しません」と宣言し、二人は決裂する。その後、永井大使は男泣きにくれた、とのこと。永井は、その後、ドイツ大使を辞し、ベルリンに戻ることはなかった。花輪事件が、大使を追い払ったのである。
次のターゲットは武者小路公共大使である
武者小路公共

武者小路公共は、トルコ大使を経て、1934年に駐独大使としてベルリンに赴任するが、その頃にはドイツ語が堪能な大島武官は、ナチスと強固な人間関係を築いていた。大使館とは別個に、陸軍の駐在武官事務所は頻繁にナチスと連絡を取り合っており、ニュースソースの観点から、日本大使館は陸軍武官事務所に劣勢であった。武者小路大使はその実情にタジタジとなり、その上に、山本五十六の件で駐英大使との会話を盗聴されるという失態を犯したため、いい加減、嫌気がさしていた。僅かベルリン滞在三か月で、武者小路大使は、賜暇休暇の名目で帰国するが、1936年に横井海軍武官が帰国した後、再びベルリンに戻ってくる。しかし、再登板後の武者小路大使は大島の軍門に完全に下っており、言い争うようなことはもはやなかった、という。武者小路は1936年の日独防共協定と翌年の日独伊三国防共協定に調印し、1937年10月に帰国する。
そして次に、東郷大使である
東郷茂徳

東郷は前任者二人よりも、仕事ができる有能な外交官であり、大島には仕事に介入させないという態度をとった。大島が食って掛かっても、ソッポを向くという態度であったようだ。そのため、両者の間には緊張感が漂っていた。
1938年8月、張鼓峰事件をめぐり、東郷大使と陸海軍武官は大喧嘩をすることになるが、東郷大使は粘り強く対処しているうちに、モスクワ大使として、同年11月にベルリンを去ることになる。両者の対立は、多分に感情的なもののようだが、「のけものにされた」と、思い込んだ大島の東郷大使に対する怒りは、相当なものであったようだ。日本人の間での宴席上、スピーチの際に東郷大使が大島を皮肉って、大島がそれに激怒し、東郷は怪しからんと、大荒れするエピソードなどが紹介される。大島は大変な酒豪で、キルッシュ・ワッサーを何杯も煽るが、翌朝八時には仕事を始めていた、という。著者が、「東郷は武者小路よりは余程有能で、良いのではないか」、と大島に言うと、「武者小路はこちらの思うとおりになったから良い。東郷は馬鹿だ」と、大島が答えたという。
東郷大使がモスクワに転任後、駐独大使へ
東郷のモスクワ転任に伴い、その後任として大島は1938年秋にドイツ大使となる。河辺虎四郎少将が後任の陸軍武官となり、大島は大使館、陸軍武官室の両方の実権を握ることとなる。小島海軍武官も大島と懇意であったため、ベルリンの日本官憲事務所は一つにまとまり、大島にとって快適な環境であった。
大島は大使館の外務省職員の間で、評判が極めて高かったという。これほど働きやすい環境になったのは、初めてだ、との声もあった。隊長などやって、部下を使いこなすことが得意だったにちがいない、という高評価が外務省職員の間で広まっていったが、大島は連隊長の経験がない陸軍中将であった。大島への悪評が職員の間で全くなかったことが、歴代の大使との大立ち回りの武勇伝と相まって、大島が怪物視された理由の一つであった。
大島は酒に滅法強かったが、飲んでいない時も怪気炎を上げることがよくあったという。その怪気炎が、ゲーリング、ヒムラー、リッペントロップなどのナチス幹部に受け、彼らとの間をより密接なものにしていった。
大島の受けがナチスに良かったことを示すエピソードとして、ヒトラーが宰相官邸で各国外交使節に接見した時のことが紹介される。一列横隊に並んでいる各国の外交使節にヒトラーが順々に握手をするが、中国大使の前に来ると、いかにも嫌そうに、すぐに次の大使に顔を向けたという。それに対して、大島の前では、ヒトラーは丁重に挨拶し、話しかけさえしたという。これは、当時進行していた、日独伊三国同盟の下相談を思ってのヒトラーの演技でなかったか、と著者は疑っているが。
1939年8月、独ソ不可侵条約の責任を取る形で大島はドイツ大使を辞することになるが、その後、ドイツは戦争に専念することとなり、日独の外交交渉はなきに等しいものになった。大島は、1940年12月、ドイツ大使に再任される。
みやげ人形の追加支払いに応じない小心の永野修身軍縮会議主席全権
永野修身

後年に海軍トップに上り詰め、大東亜戦争開戦にも深く関与する永野修身の人間性の一端をうかがわせるエピソードが披露される。
1930年のロンドン海軍条約の中の規定にもとづき、1935年12月にロンドンで日英米仏伊の五か国海軍会議が開かれる運びとなり、我が国からは永野修身首席全権、永井松三全権がシベリア経由でロンドンに向かうことになる。ベルリンに駐在していた著者は、全権団がベルリンを通過する際に、一行に同行し、報道を手伝うことになる。
1935年11月30日、永野と面識が無かった著者はホテル・カイザーホフに永野を訪ねた。永野はちょうど買い物から戻ったばかりだったが、やがて一人のドイツ人の男がスーツケースを三つも持って、部屋に訪れる。そして、勘定が足りなかった、とドイツ語で話し出すが、永野がドイツ語を解しないために、著者が通訳を買って出る。三つのスーツケースの中には、ウェルトハイム・デパートで買い求めた女児のドイツ人形が詰まっており、永野はいつもドイツ土産にこれを購入していたらしい。男は、デパートで支払いは受けたものの、人形二つ分の支払いが足りなかったので、今ここで支払って欲しい、と言う。永野は13体の受取証を見せて、確かに支払った、と言い張るので、著者がスーツケースを開けて、個数を確かめることになった。座って、煙草でもふかしていてください、と著者は永野に言って、デパートの男と一緒にドイツ語で軽口をたたきながら、人形を数え始める。すると、理解できない言葉を不快に思ったのか、永野は、じっとしておれず、「もう支払ったんだよ」と、日本語で、男に吐きつけるように何度も言った、という。「幸いなことに、永野の顔は河馬のように赤黒かったから、永野の興奮はドイツ人の男にはわからなかった」。
著者は、これは大した全権だ、と人形を数えながら、腹の中では呆れていたが、こんな人物が全権なのであれば、日本はこの海軍会議に興味を持っていないのだな、と心配になる。
結局、人形は全部で15体あり、永野の持つ13体の受取証と符合する。永野の性格の一端を知ることができて、このバカバカしい一件は収穫だった、と著者は感ずる。1930年のロンドン軍縮会議にも参加していた著者は、知らず知らず、切れ者で通っていた若槻全権と今回の永野全権を比較しており、「お粗末な全権」、との印象を永野に対して持つにいたる。
実際、岡田内閣は1930年ロンドン海軍条約の廃棄を決定しており、永野全権は、その方針をロンドンに持って行ったまでであった。永野は、ある意味で気楽な全権の仕事を引き受けたわけだが、帰国すると永野は英雄視され、1936年3月に発足する広田弘毅内閣では、海相として入閣し、人気を集める。世間は甘い、と著者は言う。
各国大使の末席にやっと坐れた井上庚次郎氏の代理大使問題
井上庚次郎
今聞けば、滑稽な感じもする話だが、当事者にとっては深刻であったであろう、小噺である。
武者小路公共大使が、大島浩にいびられて、失意のうちに帰朝休暇でベルリンを引き揚げ、1年あまり任地ベルリンを留守にしたのは、前述のとおり、1935年の春のことであった。その結果、井上庚次郎参事官が代理大使として、武者小路大使の留守番役を務めることになった。しかし、この代理大使という肩書はあくまで日本外務省内部の取り決めに過ぎず、ドイツ政府は代理大使など認めていなかった。井上庚次郎は、あくまで参事官としてドイツ政府には遇されたのである。このドイツ政府が代理大使というカテゴリーを認めないという方針は、面子の上で、日本政府に都合が悪かった。ドイツ政府が外交団を招待する場合は、各国大使、公使の順に並び、その後で、日本政府の言うところの井上代理大使、ドイツ政府の言う井上参事官が続く、ということになる。従って井上代理大使は、小国の後塵に列することとなり、当時自らを大国と考えていた日本政府には都合の悪い状況であった。
日本大使館は、この面子問題を表立ってドイツ外務省に切り出すのは、いささか角が立つ、と考え、在ベルリンの著者を含む新聞人に対して、「井上代理大使の席をもう少し上席にして欲しい」という、ドイツ政府に対する依頼の斡旋を要望してきた。これには背景があり、1933年にヒトラーが「我が闘争」を出版した際、日本人に対する悪口が書かれた部分を、在ドイツの日本新聞人がドイツ宣伝省に抗議したところ、その後に出版された、同署からは、該当部分が、そっくり削除された、という実例があったという。
井上代理大使の件は、いささかお門違いの感もあったが、日本政府の代表が末席で小さくなっているのは、気持ち良いものではなかったので、著者を含めた新聞人は、ドイツ外務省と宣伝省に行って、井上代理大使の席順を上げるように依頼した。その効果は直ちに現れ、井上代理大使は、各国大使の末席、各国公使の上席に座るようになったという。1936年始めのことであった。
大使館がドイツ官憲を使って日本人を監視した、日独防共協定と秘密警察の恐怖

ベルリンオリンピックでお祭り騒ぎになっていた1936年の8月、著者は日独防共協定の話が日独間で進んでいるという情報を入手する。著者は、東京と大阪の朝日新聞社の責任者に対して、絶対に開封されないような封書を送付する。入手した情報を記し、余程のことが無い限り、本件に関してベルリンからは電報を打たないので、本件の新聞発表の時期と方法を研究して欲しい、と。
その後、著者はドイツ男に尾行されていることに気づき、友人のドイツ役人に相談すると、日本大使館の依頼で自分がドイツ当局に調べられていることを知らされ、愕然とする。
著者の封書を受け取った朝日本社が、その情報について確認すべく、外務省と参謀本部に記者を送ったところ、そんな事実は全くない、との塩対応を受けた、とのこと。その裏で、ベルリンの日本大使館に対しては、「朝日の浜田をマークしろ」という指令が東京から送られる。その結果、日本大使館はドイツ当局に対して、著者浜田氏の監視を依頼することになった。
ナチスが政権を取った1933年から1935年までの間に、4人もの外国人記者が忽然と行方不明になっており、日本大使館の依頼でドイツ秘密警察の監視下に置かれたことを知った著者は、自分が5人目になるのかと真っ暗な気持ちとなる。日本大使館の依頼でドイツ当局が動く以上、日本大使館に庇護を求めることはできない。そこで、大石良雄の馬鹿遊びにならって、朝からベルリンのいたる所の酒場で呑んだり、電話が盗聴されていること想定して、誤解を受けていることをドイツ側に訴えるなど、必死に動き始める。そのうちに、尾行の男はつかなくなる。
著者に尾行をつけるように命じたのは誰か。武者小路大使か大島武官か。最後までわからないが、著者は武者小路大使が怪しいと感じている。同様のドイツ秘密警察の監視を、大使館に怒鳴り込んできた日本人に対して武者小路大使がつけさせた実例があるからである。同朋に対して、定評あるドイツ秘密警察を使って監視するなど、我慢ならぬ侮辱であると著者は感じた。
しかし、最も著者にとってこたえたのは、日ごろ懇意にしてくれたドイツの役人たちが、国外やドイツの田舎町に転勤させられたことだった。秘密警察の尾行が自分に付いていることを知りつつも、著者はこれらの役人たちを尋ねていたのである。彼らには、日独防共協定に関する疑惑をドイツ当局からかけられたに違いない、と著者は考えた。ニュースソースの喪失は、著者にとって、大きな痛手であった。
武ばったことの好きなドイツ人にもてた、軍艦足柄のドイツ訪問
小島秀雄

1937年の春、英国王のジョージ六世陛下の戴冠式が行われた際、巡洋艦足柄が、観艦式に参列するために英国を訪問した。ベルリン駐在の大島陸軍武官、小島海軍武官は、せっかく英国まで来るのだから、この機に、足柄にドイツ訪問をさせようと、日独の両当局に働きかける。両武官は、1935年の山本五十六中将のドイツ訪問に関する、国際電話盗聴事件を根に持っており、大使館を無視して話をドイツ海軍省と進めていた。武者小路大使も、件の話を恥じてか、両武官に口出しをしなかった。大島と小島の働きが功を奏し、足柄の軍港キール訪問は実現の運びとなる。
日本の一万トン級の巡洋艦がドイツ訪問をすることは、当時のドイツにとって、大きな興味であり、様々な歓迎式典のプランがつくられたが、殆どが武官室主導で、大使館の出る幕はなかった、という。
キール運河の西端にあるブルンス・ビュッテルに足柄は到着し、ゆっくりと運河を東進する。足柄の前甲板に陣取った軍楽隊が行進曲を演奏し、運河の周囲に建つ人家の人々や、農地で耕作をしている農民達が、足柄から聞こえる行進曲を耳にして、右手を上げて足柄に敬意を表する。
足柄と軍港の間で礼砲を打ち合うということで、乗船していた著者は下の士官室に入ったところ、第一砲が大きくとどろく。とたんに、「チビルは中に入れ」という、とてつもない大声が艦の上の方から聞こえ、その声の主は小島海軍武官であった。チビルと言うのは、ドイツ語で町人といった意味で、権力の無いものを指し、良い響きではない。小島武官は、温和な性格で、軍人とは思えないような物腰柔らかい人物だと感じていたが、いざ咄嗟の局面になると、温和な小島武官の口をついで出た言葉は、「チビルは中に入れ」であった。何とも越えがたい、官僚臭味が感じられた、と著者は感じた。
その翌日、足柄の水兵たちがベルリンのレーアター駅に着き、日独の楽曲を演奏しながら、ウンテル・デン・リンデンに行進すると、ベルリン市民は熱狂的に歓呼の声でこれを迎えた。著者はこれをもって、ドイツ民衆の日本への友情の表れとのみ解すべきではなく、足柄水兵の行進が武ばったことが好きなドイツ人の嗜好に合致したまで、と冷静に分析している。
鳩山氏だけが及第した欧米ゆき、国民使節数氏の現地での言動報告
鳩山一郎

昭和10年代の出来事で、受験日本史では教わらないが、意外と様々な著書に登場するのが、「国民使節」である。別コーナーで紹介している、アルフレッド・モアー著の「日本に指導者とともに」の中でも、多くの国民使節が太平洋を渡ってアメリカを訪問し、米高官や政治家にしきりと会いたがっている描写がなされている。公金で派遣された国民使節も多いらしいが、その全貌を記した資料を目にしたことはない(ご存じの方は、教えてください)。
本項では、ドイツへ来た国民使節について、語られているが、その使節は政府公認と未公認のものがあったようで、前者は外交成果も期待されていたようだ。とりわけ、1937年の日華事変以降は、日本の立場を諸国に説明するという趣旨で、多くの国民使節が派遣されたという。部外者の介入を、「二重外交」であるとして忌避する外務省が、この国民使節を黙認どころか、推進していたという事実に驚く。
著者はその国民使節による外交を、外務省、陸海軍に加えられた、三重外交を招きかねない不可解な取り組みだった、と批判的に回想する。これは、収束しない日華事変に対する日本国民の不満を封じるための手段ではないか、すなわち、日華事変の失敗の責任を国民に転嫁する目的があったのではないか、とも考えられる。
ドイツへは3人の国民使節が来訪したが、その一人が鳩山一郎であった。使節の効果に疑問を持っていた鳩山であったが、広田首相に、自由に話してきてよい、と言われて、国民使節役を受け入れ、1937年12月1日にヒトラーとの会見が実現する。しかし、実際にヒトラーに会う前に、日本大使館に呼ばれ、武者小路大使、大島・小島の両武官同席の下、会見の下打ち合わせが行われたという。これでは、検閲同然で、国民使節の意味がない、と後日、鳩山は著者にこぼしたという。他に、Y氏、G氏がドイツを訪問したが、要領を得ない質問をしたりして、支離滅裂な会見になったという。要するに、何のための国民使節なのか、はっきりわからぬままの、真にオソマツな訪独であったようだ。
その他、自称国民使節という、非公式な来訪団もあったようで、それらは右翼関係者が多かったという。公式な国民使節ですら、明確な使命がわかなないのだから、これら右翼関係者がまともなトピックスを持っているはずもなく、日本刀、鎧、兜などを手土産にして、ヒトラーに会わせてくれ、と頼むのであった。日本大使館が匙を投げると、新聞人である著者らに会見斡旋の依頼がまわってくる。彼らは明らかに、ヒトラーとの会見を帰国後の自らの宣伝に利用しようとしており、外交上の効果など二の次であった。 著者は言う、「外務省は人形使節を送るような感覚で、国民使節をつくったが、それ以外の自称国民使節も野放しにした。国民使節は間違った発想であり、最初から失敗が予定されていた構想だ」と。
ナチス外交のずるさを見きわめた、東郷リッペントロップの張鼓峰事件会談
ヨアヒム・フォン・リッベントロップ

本項では、1938年の日ソ間での張鼓峰事件に関する朝日新聞報道に際して、垣間見られたナチス外交の狡猾さについて語られる。
1938年8月の北朝鮮の張鼓峰での日ソ軍事衝突は、日華事変が収束しない中での新たな第三国との戦闘と言う意味で、日本人を不安にさせたが、日独防共協定を結んでいたドイツも、他国の争いの巻き添えを食ってはたまらない、と慎重に警戒していた。著者は東郷大使が、8月8日に突然、リッペンドロップ外相の別荘を訪問して2時間にわたって会談する情報を事前に入手し、東郷大使の帰りを待って、張鼓峰事件と日独防共協定の関連性を話し合った会談の趣旨を東京に打電する。その内容が9日の朝日夕刊に掲載されると、ドイツ外務省は翌日、朝日の報道はドイツ側の発表と異なる、と日本大使館に抗議を行うと同時に外国メディアに対しても、朝日報道が虚偽である趣旨を通告する。さらにドイツ外務省に属するDD通信も同様な発信を行った。その結果、海外の新聞報道では、ドイツ当局の発表に沿った報道が主流となる。
ドイツ側の狡猾さは、これらの反論が下級官吏レベルで行われたことで、リッペンドロップから東郷大使への直接の反論は一切行わなかった点である。8月11日に、急転直下、日ソ間で事件の解決がなされると、ドイツ政府は態度を過去2日間とは一転させ、「ドイツが日本の側に常に立つことは、リッペンドロップ東郷会談で確言した通りである」と、手のひら返しの発表を行う。
著者はこの件を通して、ナチスドイツの正体を見た気がした、という。後年、三国軍事同盟が締結される直前(1940年8月)、日本はナチスドイツ一辺倒に染まるが、著者は、「ナチス外交の神髄」という一文を朝日紙面に発表し、世に警告を発することになる。
武官室の鼻毛をうかがう、商魂に徹したドイツの日本商社
驚く話だが、統制経済を行っていたナチス政権下のドイツと日本の民間貿易は物々交換(バーター制)だったという。それも、ドイツ側が日本から輸入したいものを決めたうえで、1年ごとに輸出入の数量、金額を厳密に協定する内容だったという。当時ドイツが外国為替で貿易をしていたのは、イギリス相手のみで、通常ドイツは原材料を必要としていたので、その対価として、相手には必要ないものまで押し付ける、という酷いやり方だった。それゆえに、バルカン半島のユーゴスラビアやギリシャはドイツに輸出した原料の対価として、何年かかっても使いきれないような、大量の玩具やカメラを押し付けられて、閉口していた。日本からの輸出は、満州産大豆で、大量の大豆をドイツは欲していたので、貿易は円滑に進むはずだったが、日本側の機械需要がいつも多かったので、交渉では日本はいつも不利な条件を飲まされる立場だった。
在ベルリン商務官事務所がドイツとの交渉を行うが、扱い商社の割り当ては、商務官事務所の一任なので、当時ドイツに支店を持っていた、ドイツ物産(三井物産)、三菱商事、住友商事、大倉商事は、商務官事務所の人々に頭が全く上がらなかった。
民間貿易とは別に、陸海軍は、国家予算を使って、外国為替でドイツから機械類や特許権を買っており、これは陸海武官室がすべて采配を行っていた。陸海軍の欲しがる機械類を、どのドイツ企業が販売するのかを探し出し、武官室と緊密な連絡を取り合うことが、商社の手数料を確実にするため、各社は武官室に平身低頭であった。大手商社の各社は技術者を揃えており、武官室の技術将校に接近して、商機を虎視眈々と狙っていたのである。海軍は陸軍の10倍もの購入をドイツから行っていたので、商社の注力は海軍が中心となり、陸軍の大島中将武官より、海軍の横井中佐武官の方が、その位階の差にもかかわらず、圧倒的に人気を集めていたという。ただし、日華事変以降は、陸軍の購入も急ピッチで増えていったとのこと。
無駄なものを高額で買わされたケースもあった。満州国を承認したドイツは、満州国通商代表部をベルリンに開かせ、大量の大豆を買い付けるようになった。大量の買い付けができる余裕ができた満州国を利用して、日本陸軍が石炭液化の特許権を満州国に買わせる。これで石油が無くても安心だと陸軍は大得意で、大きな手数料を得た商社も大満足であったが、大きな落とし穴があった。この特許権は、オパールを触媒に使うことが条件であり、オパールはアフリカの仏領植民地でしか生産されないものだった。石炭液化の機械が撫順に据え付けられたのは、1939年であり、その後まもなく欧州戦争が勃発し、オパールの輸入はままならなくなってしまう。肝心の触媒がなくては、せっかくの高額な石炭液化の機械も宝の持ち腐れであった。著者はナチスドイツが、この特許権をあっさりと売り渡したのは、こういう状況を見越したうえで、使い物にならないと判断したからではないか、と疑っている。
オリンピックと博覧会出品の招致で、朝令暮改に翻弄された有吉忠一氏
有吉忠一

東京万国博覧会

東京オリンピック(1940)

1938年の春、貴族院議員の有吉忠一は、万国議員商事会議出席の帰路、夫人同伴でベルリンに立ち寄った。長男の義彌氏が日本郵船のベルリン所長を務めていたからである。しばらくすると、1940年に開催予定の東京オリンピックと同時開催の万国博会について、欧州諸国の参加を交渉して欲しい、という依頼を有吉は東京から受ける。予算も規模も未定の博覧会に、訳も分からぬまま、交渉せよという無理難題で、著者は有吉から相談を受ける。日華事変が収束しない当時の状況に鑑みて、開催が危ぶまれる企画ならば、実現しなくても相手に不義理にならぬ程度に、適当に話を持ち掛ければよい、と著者は助言する。東京からの指示や依頼で動いた出先が梯子を外され、散々な目に会った経験が著者にはあった。著者の助言に大きく頷き、笑って同意する有吉をみて、彼を典型的な官僚だと思っていた著者は意外な感を受ける。官僚仲間の間でも、日本政府が無責任体制の腐った組織と認識されているとは。その後、2か月ほどして、東京はオリンピックも博覧会も放棄してしまう。参加の勧誘を各国にしていた有吉の立場は微妙になるが、出先の切り捨てがまたしても行われたのであった。
損な役回りは、いつも出先の人間であった。
日独伊同盟にすこしも関与しない調印者、本心の分かりにくい来栖三郎大使
来栖三郎

ハルノートを野村大使と共に受け取った駐米大使として来栖三郎は有名だが、その前任地のベルリンでは三国軍事同盟に署名している。そのため、来栖がワシントンに赴任した際に、三国軍事同盟への署名者として、アメリカでは最初から悪役扱いされることになる。ロバート・ハルの回想録でも、来栖はネガティブな描写をされている。フレデリック・モアーの著書、「日本の指導とともに」でも、散々な書かれようだ。随分と人受けのしない人物だったようである。
1939年の11月、ブラッセルからベルリンに転任してきた来栖大使に挨拶に向かった著者に対して、来栖が放った第一声は、「ナチスが好きになったか」という、いい加減、人を食った質問であった。著者が、「私は日本人ですよ」と答えると、「それで安心した」と、来栖。
著者は次のように述べる。
「ずっと後日になって、アメリカのハル国務長官の回顧録を読み、その中で国務長官が来栖氏のことをクソミソに批評しているところにゆきあたると、やはり来栖氏の、あの性格が、ハルの眼を刺激したのかと考えさせられた」
三国軍事同盟は、東京で話がすべてまとまり、署名当事者の来栖大使は全く関与していなかったのだが、そのような手続きは、日本では前例のない、異例なことであった。一体どの様な気持ちで、署名を行ったのか?
1941年、駐独大使の任を終え、帰国に際して開かれた大使送別会の席上で、ベルリンの日本人会長が、来栖の功績として、三国軍事同盟の締結、署名をスピーチで述べると、来栖は直ちに、「同盟は東京で何もかも決めたのであって、私は署名をしただけです、その点を間違いなきよう」と、返したという。
軍用の金で終戦までドイツで無為徒食、戦争を傍観していた技術工員の大群
これも知られざる歴史と言えようか。大量の日本人技術工員が大戦で帰国できなくなった話である。
1935年頃、ドイツは日本が技術を模倣することを極端に嫌い、日本人技術者がドイツに見学に訪れても、民間人でも軍人でも、冷たい扱いを受けていたという。1936年11月に日独防共協定が結ばれ、翌年の日華事変以降、日本陸軍が大量の機械類や特許権を買い付けるようになると、ドイツ技術界の対応も変わってきた。
1938年になると、日独防共協定をたよりに日本陸軍はドイツ側と交渉し、日本人技術工員をドイツ各地の工場で実地研修させることが可能となった。陸軍砲兵工廠や海軍兵器廠で働いていた熟練工が、1938年後半から、続々とドイツ入りし、各地の工場に分散して行った。1939年の夏、大戦が始まるが、まだ技術を身につけていなかったため、工員たちは滞在を継続する。しかし、1940年になって、危険な海上航路を避けて、シベリア鉄道経由で帰国しようとすると、ソ連が通行ビザを出そうとしない。やがて1941年6月になると独ソ戦が始まってしまい、陸海軍は技術工員を一刻も早く帰国させて、日本での生産指導に従事させようとするが、ソ連がシベリア通行の査証発行に頑として応じなかった。そのため技術工員の帰国の道は閉ざされ、皆ベルリンに集まって、ブラブラするはめになったという。
日本では軍需生産のために、一人でも多くの熟練工を必要としていたにも関わらず、何十名もの技術工員たちは、することもなく、1945年の終戦をベルリンで迎えることになったという。